郡会・県会時代
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1890年(明治23年)県会議員となり、翌年の仙北郡会の開設に伴い第一回議員に大曲町から選出された。同年の通常郡会では議長代理に当選し、翌年には郡参事会員にあげられ郡会をリードした。郡会議員としては道路の開削、病院の設置、郡役所の建築などに着手し、1896年(明治29年)8月31日発生の陸羽地震(六郷地震)の救済・復興に当たっては、国・県に強く働きかけを行い事績を残した。県会議員としては県立図書館の設立、国立種馬所の神宮寺への誘致、農商務省農事試験場陸羽支場の花館への設置、奥羽線の全通促進運動、秋田育英会の創立、土崎築港案の可決、横手中学校(現秋田県立横手高等学校)・大曲農学校(現秋田県立大曲農業高等学校)の設立、秋田市水道の布設、千秋公園の秋田市移管などに力を尽くした。1901年(明治34年)の通常県会では第18代県会議長に選出されたが、病気療養のため1903年(明治36年)9月に任期満了とともに議員を退任した。また、経済界の動向にも着目し、田口岩蔵と資金合本社を設立し、1894年(明治27年)に大曲銀行に発展した。同年、大曲米穀取引所を設立し、初代理事長となった。その機関誌として「大曲商報」(現秋田民報)が生まれた。1902年(明治35年)には秋田新聞の立て直しを計画し、株式会社組織の秋田魁新報を発足させ、重役に就任、1906年(明治39年)には秋田農工銀行頭取の初代頭取に就任した。
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