遺書の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:20 UTC 版)
文面については#外部リンクを参照。 山本の遺した遺書は、死の間際に視力も薄れ、寝返りも打てないほどの激痛の最中、わずか1日で書いたにもかかわらず、ノート15ページ、約4500字に及ぶ長文であった。衰弱の中で最後の力を振り絞ってそれほどの長文を書きあげた山本に、仲間たちは執念を感じた。また仲間たちは遺書の内容に、シベリアで空しく死んでいったすべての人たちの想いが籠められていると感じ、山本個人の遺書であると同時に自分たちの遺書でもあり、収容所で死んだ日本人全員が祖国のすべての日本人たちに宛てた遺書として受け取った。 辺見じゅんは、『収容所から来た遺書』執筆のきっかけとなった遺書について、以下のように感想を語っている。 後になって知ったことだが、字数にして約四千五百字、それも癌で亡くなる一ヵ月半前に一晩で書かれたものだった。驚嘆すべき生命力であり、これを書かねば死ぬに死ねないといった一人の男の凄まじい執念の結晶だった気がする。(中略) その遺書の一通ずつに私は引き込まれた。老いた母親に先立ってゆく不孝を詫びる息子としての切々とした思い。妻のモジミさんに子等を託す夫としての信頼と感謝にみちた遺書。それらに胸が熱くなったが、何よりも心を動かされたのは、四人の子供たちに宛てられた遺書だった。ああ、これは山本さんの子供たちに宛てた遺書というだけでなく、私たち日本人の全てに向けられた遺書であり、力強いメッセージではなかろうかとさえ思った。 — 辺見じゅん「山本幡男の遺書との出会い」、辺見 1990, pp. 339–340より引用 その子供たちのうちの1人、長男の山本顕一(立教大学名誉教授)は、大学生当時に遺書を読んだときの感想をこう述べている。 こんなに大きなものを受け取って、むしろ困った。これに応えなければ、とこれまで生きてきた。(中略) 私がすべきことを皆、辺見さんがしてくださった。辺見さんが父の遺書を見つけたのは、父の言葉が世に知られることを欲していたからではないか。 — 山本顕一、「夕鶴 辺見じゅんの足跡」、読売新聞 2013, p. 31より引用 美術家の太田三郎は、兵庫県の西宮市大谷記念美術館で回顧展「2000-2001 太田三郎」開催時、山本の遺書を書き写した作品『最後に勝つものはまごころである』を出展しており、同展で最も反響を呼んだ作品がこれであった。「最後に〜」は山本が遺書において、子供たちに宛てた箇所の1節だが、太田はこれを何度も書き間違えそうになったことから、遺書を暗記した者たちの凄まじい気力を実感するとともに、命がけで暗記する価値のある文章だと理解したという。
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