農民への強攻策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:10 UTC 版)
1918年11月に第一次世界大戦が終結すると、経済復興を課題とした1920年春の第9回共産党大会では、運輸・燃料部門の復興が最優先とされ、ついで機械生産部門、最後に消費財生産部門の復興が目指された。この全ての部門において、農民には、ソヴィエト内のすべての労働者への十分な食料供給と生産が義務化され、燃料部門で必要な薪の調達、路線の除雪作業など関連する労働義務も課された。 1918年12月までに、貧農委員会は5000万ヘクタールの富農の土地を没収した。しかし、富農認定に行き過ぎがあり、なかには中農・貧農までも富農として認定されるケースが相次ぎ、農村に混乱が生じたため、レーニンは1919年3月12日には地主と資本家からは完全に財産没収すべきだが、富農への完全没収や抹殺を行なってはならないと方針を修正した。 1919年から1922年のボルシェビキによる農村への強硬策は、第一次農民戦争とも呼ばれ、1928年から1932年の第二次農民戦争の前段階とみなされている。なお、1921年のネップ導入では、穀物の徴発を中止し、農民に蓄積と取引を許可し、労農連合(スミフカ)を宣伝したが、これは第一次農民戦争(1919-22)と第二次農民戦争(1928-32)のあいだの小休止だったとされる。 1920年は凶作となり、国の指定する面積への穀物の種付けが強制された。重い負担に不満をもった農民は1920年、西シベリアやタンボフ県で反乱を起こした。1921年には反乱が拡大したため、赤軍正規軍が投入され、毒ガス弾も使用されるなどの熾烈なゲリラ掃討戦が実行された。1921年のクロンシュタットの反乱に際して農民たちは「共産党政府は農民から穀物と牛乳を徴発し、お返しにチェーカーと銃殺部隊を差し向けてきた」と地元の新聞で書いた。 詳細は「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」を参照 1921-1922年に発生したロシア飢饉でロシア正教教会が被災者を援助しようとすると、ソビエト政府は教会による援助を禁止した。これに反発した聖職者は逮捕され、8000人以上の聖職者が処刑され殺害された。
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