農民党と国民農民党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 09:41 UTC 版)
「アルマンド・カリネスク」の記事における「農民党と国民農民党」の解説
カリネスクは初め、国内で有力だった国民自由党に参加することを考えていたが、彼の政治観点は国民自由党の党首であったイオン・ブラティアヌ(英語版)から否定されてしまった。その代わりに彼は、当時興隆していた対立政党の農民党(英語版)へ参加し、党首のイオン・ミハレイク(英語版)に多大な影響を受けた。彼は1926年に農民党から選出された38人の議員の一人(この年にカリネスクは初めて選出された)で、彼らは当時結成されていたアレクサンドル・アヴェレスク内閣に反対していた。その後1937年まで彼は選挙のたびに選ばれ続けていった。 農民党がルーマニア国民党(英語版)と合併して国民農民党(英語版)が新たに結成された際、カリネスクは党内の左翼側に立った。同じ思想側に立った党員にはミハイ・ラレア(英語版)、エルンスト・イェネ、ミハイル・ゲルメギェアヌ(英語版)、ペテル・アンドレイ(英語版)、ニコラエ・ルプ(英語版)などがいた。カリネスクは国民農民党のアルジェシュ県担当リーダーとなり、1928年のユリウ・マニウ(英語版)内閣の下で勢力を拡大していく中で、ミハレイクによって農林水産省の第一秘書に任命され、その後にはアルジェシュ県の県知事(英語版)となった。そして1930年には、アレクサンドル・ヴァイダ=ヴォエヴォド(英語版)の下で内務次官を務めた。 内務次官に就いたカリネスクは、違法化されたルーマニア共産党の動向を監視していた。1929年にルペニ(フネドアラ県にある鉱山町)にて鉱山労働者のストライキ(英語版)が発生した際は、ルーマニア王国陸軍に命じて疑いのある運動家の逮捕を行ったり、1933年にグリヴィツァ(英語版)にて鉄道員のストライキ(英語版)が発生している最中には、軍に命じてストライキ参加者を殺害させていた。 また彼は同様に、1931年に非合法的に結成されたファシズム政党の鉄衛団にも注意を向けていたが、この行動は結果として1933年のヴァイダ=ヴォエヴォド内閣の崩壊に繋がってしまった。 国民自由党のゲオルゲ・タタレスク内閣と対立する中で、カリネスクはタタレスクらの鉄衛団に対する寛容な姿勢に警戒を抱くようになり、特に1933年12月のイオン・デュカ(英語版)の殺害や、1936年のイオン・デュカ記念碑の冒涜によって一層警戒が深まった。
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