農民一揆と栃尾問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
栃尾は、上杉謙信が幼少期から元服して長尾景虎と称し、兄の長尾晴景と対立していたころに本拠地としていた。謙信の旗揚げの地であったために人々の団結が強く、また渓谷の合流地点でもあるために割拠がしやすい土地柄であったとされる。加えて栃尾組は『山ばかりの組方』と呼ばれて、谷合いの川に沿って村落と農地があるので水害が多く、加えて地滑りや山崩れ(俗に「山ぬけ」「ぬけ」「脱狂い」などと呼ばれる)が多く、作付け不能の田が続出し、作付けできても肥料もちが悪く、年々不良が続く有様であったとしている。 そのような背景のため、江戸時代になっても一揆の頻発地となり、加増地として得た栃尾1万石新領主の越後長岡藩主・牧野家は支配のため栃尾代官を置いた。『新潟県史・通史3・近世一』によると、藩からは村側からの要求があれば代官を通じて年貢減免や救米の手当てがあったとする。しかしながら、越後長岡藩は栃尾での一揆に長く悩まされることになった。 一揆の代表的なものとしては、栃尾においては、元和7年7月(1621年8月・新暦)に長岡藩の検地への抵抗による「縄一揆」や、元禄3年(1690年)に租税収納問題から栃尾郷塩谷村21か村が徒党を組み強訴に及んだほか、嘉永6年(1853年)には幕末の政情不安の中で栃尾郷諸村1万人打ちこわし事件(栃尾騒動)が起きた。
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