身延線列車火災事故
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「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)」の記事における「身延線列車火災事故」の解説
1950年(昭和25年)8月24日15時23分頃 身延線寄畑 - 内船間を走行していた富士発甲府行き普通列車第615電車(62系電車(一代目)と32系電車による4両編成、進行方向前からモハ30173+クハ101+サハ701+モハ62001)が、同区間にある島尻トンネルを走行中に出火し、車両を全焼する事故が発生。 当時の新聞によると、乗客500名(朝日)または400名(山梨日日)のうち9名が軽傷を負ったものの、死者は発生しなかった。 事故原因は諸説あるが、トンネル進入時にパンタグラフが急降下して折り畳まれたことで、パンタグラフと架線との間にできたわずかな隙間にアークが連続発生したことで架線を溶断して垂下させ、最後尾のモハ62001の屋根に接触したことで全車両へと燃え広がったものと推定される。 なお、身延線のトンネルは国鉄の他の路線と比較して天地寸法が狭小であり、その走行に対しては屋根高さやパンタグラフの折り畳み高さが低くなるようにした専用車両を要する。しかし、この編成に含まれるモハ30173は本来はトンネルのない富士 - 西富士宮間の区間運転用の車両であり、身延線のトンネル通過を禁じられていた車両であったのだが、誤って甲府行きに充当されてしまったために事故を起こしたとみられる。 編成全車両が全焼したが、モハ62001は焼損状態のまま西武鉄道へ譲渡され、モハ30173は国鉄豊川分工場でクハ47023に改造のうえ復旧したが、中間のクハ101とサハ701については記録がなく廃車されたものと思われる。 事故に遭った62系電車は、身延線用として折りたたみ時の高さを低く抑えたパンタグラフを導入していたが、この事故により離線距離が充分確保されていないと判断された。事故後はパンタグラフ折畳高さ上限を3,960 mmと定められ、同時に身延線を走行する車両に対してパンタグラフ搭載部を低屋根化する改造工事、および不適合車両の他地域転配などが行われている。 その後も身延線へ投入された80系800・850番台や165系、62系(2代目)、115系2600番台、クモユニ143、123系、373系、313系といった後継車両においても、必ずパンタグラフ部の屋根高を低く抑えた車両や、パンタグラフ自体を狭小トンネルに対応したものが搭載されている。民営化後のJR東海においても車両新造の際は一部の車両を除き、身延線への入線を考慮した屋根高さで新規設計されたり、既存車にも折り畳み高さを低く抑えられるシングルアームパンタグラフに載せかえるなどの対策を行なっており、現在に至るまで建築限界上の特別な影響を受けている。 また、身延線同様に狭小トンネルを有する中央本線においても、「狭小とされるトンネルを45km/h以下で通過すること」を条件に通常の屋根高さの車両が使用されることがあったが、当事故後にそれを一掃するべく、翌年の1951年7月からモハ30形7両を低屋根改造のうえで中央山線専用配備したほか、防火性と狭小トンネルに対応した初の全金製低屋根電車モハ71形試作車も登場した。 この事故によって、国鉄の車両火災・トンネル事故対策の契機にはなったものの、翌年1951年には桜木町事故によって当事故よりも多くの死傷者・被害を出す大惨事が起こってしまった。
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