路線敷設免許取得まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 04:34 UTC 版)
「奈良電気鉄道」の記事における「路線敷設免許取得まで」の解説
第一次世界大戦後の好況(大戦景気)で、京都府(久世)・宇治・綴喜・相楽の各郡を選挙区とする衆議院議員の長田桃蔵を中心に、1919年(大正8年)11月3日、『奈良電気鉄道』として、起点を京阪電気鉄道中書島駅、終点を大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)奈良駅付近とする29.7km・軌間1,435mm・動力直流600Vの電気鉄道による地方鉄道の敷設免許申請が行われた。発起人は50名で、総代は長田桃蔵と太田光凞(当時京阪電気鉄道常務)であった。 経由地は起点の京都府紀伊郡向島村(現・京都市伏見区)、伏見町、堀内村、久世郡槇島村、大久保村(現・宇治市)、久津川村・寺田村、富野荘村(現・城陽市)、綴喜郡田辺町・三山木村(現・京田辺市)、相楽郡狛田村、祝園村(現・精華町)、相楽村、木津町(現・木津川市)、奈良県添上郡佐保村(現・奈良市)でそれより終点までは関西鉄道大仏線の廃線敷(1907年(明治40年)廃止)を利用し、奈良に至る計画であった。創立事務所は京都府紀伊郡伏見町に置かれた。 同じく1919年11月10日、奈良県下で電気事業を営んでいた関西水力電気(後の東邦電力)の社長森久兵衛ら15名を発起人とする関西電気軌道が奈良県奈良市から京都府相楽郡木津町(現・木津川市)、綴喜郡田辺町(現・京田辺市)宇治町を経て、京都七条に至る競合路線の申請を提出、奈良電気鉄道と競願となった。 もっとも、第一次世界大戦の好況も続かず、経済状況は次第に悪くなり、京都府と奈良県の推奨もあり、両社協議の結果、奈良電気鉄道が関西電気軌道と合併契約を結び、関西電気軌道は申請を取り下げ、同社発起人会は解散した。 路線敷設免許は、1922年(大正11年)11月16日免許された。なお、発起人は1921年(大正12年)9月21日、京都府綴喜郡田辺町から大住村、有智郷村を経て八幡町、京阪電気鉄道八幡町駅に至る支線(八幡支線)の免許も申請し、それも同時に免許されたが、こちらは1925年(大正14年)8月25日付で失効している。 その後、不況の影響もあって発起人は会社設立を一時見合わせると同時に、大阪電気軌道畝傍線(現・橿原線)にも連絡でき、建設キロ程の短縮と、建設費約50万円の節減となることから、起点を京阪電気鉄道宇治線の宇治駅付近、終点を大阪電気軌道大軌西大寺駅(総延長25.4km)に変更した。さらに、起終点でそれぞれ接続する京阪電気鉄道と大阪電気軌道との間で列車の乗り入れについて交渉し、両社とも自社の培養線として奈良電気鉄道線が有効であると判断したことから列車の乗り入れについての合意が得られ、1924年(大正13年)3月には京阪電気鉄道と、4月には大阪電気軌道と車両乗入契約を締結。同年5月24日に起業目論見書変更申請をし、同年10月25日に許可を得た。
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