財務機関としての発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:01 UTC 版)
「テンプル騎士団」の記事における「財務機関としての発達」の解説
軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。第1回の十字軍は参加者自身が資金を集めていたが、全財産を売り払う者もいたために物価下落を招いたという非難があった。このために第2回以降は教会が遠征費の調達をすることになり、テンプル騎士団が資金の管理に関わるようになった。12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。危険がともなう現金輸送よりも便利であり、巡礼者から国王にいたるまで幅広く利用された。もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても、実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。巡礼者に対しては、現金を持って移動するリスクを防ぐため、自己宛為替手形(lettre de change)の発行等の銀行機関のようなサービスも行った。また現在で言う預金通帳のような書類(bon de dépôt)もテンプル騎士団の革新的発明だと言われている。 1187年の十字軍の惨敗も、金融業務の拡大に結びついた。軍事力のみでは聖地の回復は困難と判断したテンプル騎士団は、所領経営を開始する。所領は管区とコマンドリーに分かれており、管区はヨーロッパに10から13、西アジアに3があった。管区の下部組織にあたる所領の最小単位がコマンドリーで、修道院・聖堂・農地で形成されており農地の生産物を貨幣化した。金融業務ではイタリア商人との取引が増え、13世紀中頃にはシャンパーニュの大市を期日としていた。このように多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランス王国の非公式な国庫といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する経済援助を行っている。1146年にはルイ7世の命により王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代(後述)まで続く事となる。
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