豊澤團平に入門し、豊澤九市を名乗る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 00:07 UTC 版)
「豊澤團平」の記事における「豊澤團平に入門し、豊澤九市を名乗る」の解説
九歳の時に、竹本祖太夫(二代目豊竹呂太夫)の父である初代鶴澤重造に入門するも、師匠重造は、明治2年(1869年)五代目竹本綱太夫を弾いている際に、綱太夫と揉め、三味線を下において楽屋へ飛び込み、それ以来芝居への出勤を断り、自宅で稽古を続けていたため、九市は芝居に出ることができなかった。そこで、師匠重造からの手紙を持ち、初代豊澤團平のところへ弟子入りした。本名から豊澤九市と名乗る。 明治4年(1871年)8月いなり文楽座『伊賀越』で大序を弾き初舞台。翌9月の番付に「豊澤九市」の名前が確認できる。翌明治5年(1872年)1月松島文楽座の杮落し『御祝儀三番叟』で初代團平・初代新左衛門・豊澤猿糸のツレ弾きをする。この年、師匠鶴澤重造の追善浄瑠璃会が北久太郎町の北福(大一楼)が開かれ、そこで九市の三味線を聞いた三代目竹本雛太夫(後の五代目竹本住太夫)が「是非弾いてもらいたい」ということで、明治6年(1873年)10月道頓堀竹田芝居『大江山酒吞童子』「土蛛の段」にて雛太夫を弾いた。翌明治7年(1874年)、16歳で初代竹本春子太夫(三代目竹本大隅太夫)を弾く。明治11年(1878年)10月堀江市の側の芝居にて六代目竹本綱太夫が「急ぐ駅路は車の綱に道を走らせ芦の都の御贔屓の綱をたよりに山川の難所をいとはず再び御地に帰り」と番付に口上書きをして大阪へ帰ってきた芝居で『八陣守護城』が通し狂言で上演され、『近頃河原の達引』が附物となった。 「堀川猿回しの段」が初代竹本春子太夫の役場に決まったため、豊澤九市が三味線を勤めることになったが、あまりの若さでの九市の抜擢に、段切れの猿回しのツレ弾きを弾いてくれるものがなかった。 「十八歳やそこらの青二才に附物の三味線を弾かせるような破格なことはございませんので随分仲間に苦情があったそうで夫れが為にも誰もツレ弾きをしてくれる人がありません。仕方が無いので自分一人で勤める覚悟を極めて居ますと、當時大立者の(初代豊澤)新左衛門が其事を聞いて己(俺)が弾いて遣ると言って下すつた時は実に有難く感じました」と本人が語るように、初代新左衛門がツレ弾きを買って出てくれた。ツレ弾きはその三味線よりも格下のものが勤める習いであるので、格上の三味線弾き…ましてその芝居の番付で三味線弾きの留めである新左衛門が勤めるというのは破格中の破格である。後述の通り、新左衛門から見て九市は娘婿であり、九市から見れば新左衛門は義父にあたる。 その後、九市の孫婿である鶴澤政二郎が、五代目鶴澤徳太郎の襲名披露にて『本朝廿四孝』「狐火の段」にて新・徳太郎のツレ弾きを勤めた。これは義父新左衛門がツレ弾きを勤めてくれたエピソードと重なる
※この「豊澤團平に入門し、豊澤九市を名乗る」の解説は、「豊澤團平」の解説の一部です。
「豊澤團平に入門し、豊澤九市を名乗る」を含む「豊澤團平」の記事については、「豊澤團平」の概要を参照ください。
- 豊澤團平に入門し、豊澤九市を名乗るのページへのリンク