議会主義批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:23 UTC 版)
自由主義の最も典型的な制度としての議会主義は、最も憎悪された個別現象であった。例えば、シュペングラーなどは国家や政治を常にただ偉大な人物の作品ないし業績としてのみ理解し、彼等だけを偉大な歴史の形成者としてみなしていたから、彼にとって国民主権などは笑うべき愚かな代物でしかなかった。国民を不平不満の塊としか見ない彼は、既に1929年、国民代表制の議会を「上品ぶったビアホール談義」と皮肉っている。シュペングラーは、高慢なペンをふるってこう書いている。 国民の権利などというものは、政党による破壊工作を放置しておく自由と解されるかぎり、笑止千万である。 彼はまた、代議士に対しては「選挙動物」という悪口をついて憚らなかった。彼によれば、この「選挙動物」は全く余計な存在であり、重要な仕事は少数の有能な人物によってのみ遂行される。代議士に残された唯一の仕事は、あつかましい批判だけになるから、議会は彼等の食いものにされて荒廃し、偏狭で蒙昧、低俗となり、質はますます低下していく。議会制国家の政治を冷笑して悪徳商売と同一視したのもシュペングラーであった。彼にとって議会主義のヴァイマル共和国は断じて1つの国家ではなく、1つの会社に過ぎなかった。この体制では国家を治めているのは商業であり、国家が商業を治めているのではなかった。 議会制は政治的資質を選別するのに適した方法であるという考え(マックス・ヴェーバーなど)は、少なくとも前述のような人々の間では逆転させられていた。つまり議会は、国民のエリートの集会とは全く別物とされた。殆ど全ての反民主主義者にとって議会は劣等者の選別場に他ならなかった。 常に議会内の駆引きや利害抗争に没頭し、反対党としての役割に無上の名誉を求める政党・議会政治は、政治家たるべき資質の育成には殆ど役立たなかった。 反民主主義的文書では、よく国民とその共同体が前面に押し出されていたが、この国民の政治的活動能力には極めて懐疑的な判断が下されていた。選挙民の大部分は、国家と政治にとって何が必要かつ必須であるかを洞察する力に欠けているから、真の政治的決断力をもたない、という周知の理論は広く受け入れられた。 今日の議会は、第1にあらゆる問題について議論し決議する場であり、第2にそれは投票、即ち選挙民大衆による選挙から成り立つが、厳密に言うと選挙民大衆には選挙する能力など全くない。一体何が問題となっているのか、誰も知らないからである。
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