警察、FBIとの闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:13 UTC 版)
「ブラックパンサー党」の記事における「警察、FBIとの闘争」の解説
1968年、党員数は当初の400人から5000人以上に達し、全米に40の支部が置かれ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」は40万部以上が発行された。当初BPPは、警察官によるゲットーの人々への暴行に対する自衛を目的に、銃と六法全書を携行して警察官に対する逆パトロールを行った。 1967年5月2日、30名の党員が銃を持ってカリフォルニア州サクラメントの州議会前で演説した後で中に入り、逮捕された。このとき、州議会ではブラックパンサーによる逆パトロールの取締りを目的とした銃の規制を審議していた。 J・エドガー・フーバー率いる連邦捜査局(FBI)は危機感を抱き、ブラックパンサーに対する弾圧を開始した。4月7日、オークランドにおいて、翌日に予定されていたピクニックの買い物をしていた17歳の党員ボビー・ハットンが警察官に襲われ、射殺された。このときハットンは丸裸になり、武装していないことを警察官に示そうとしたが、聞き入れられなかった。 1969年、議長ボビー・シールが6人の党員とともにシカゴで逮捕され、16の罪状によって起訴され、懲役4年の刑を宣告された。1971年には、1968年に起こった警察官殺害の罪で起訴されたが、不起訴処分とされた。ボビーは獄中で手記「時代を獲得せよ」を出版した。12月4日、イリノイ州クック郡において、地元警察とFBIがイリノイ州議長フレッド・ハンプトンの自宅を襲撃し、射殺した。 1970年4月2日、ニューヨークで21人の党員が、警察官殺害とビル爆破の陰謀を企てたとして逮捕された。5月22日には、女性党員エリカ・ハギンズら8人がコネティカット州ニューヘイブンで起きた殺人事件の容疑者として逮捕された。参謀長のデイヴィッド・ヒリアードがベトナム反戦集会において当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンに対する闘争の開始を扇動し、大統領暗殺未遂の罪で逮捕された。 これに先立つ1968年、党情報相のエルドリッジ・クリーヴァーが思想の違いからBPPを離脱し、党はシール・ニュートン派とクリーヴァー派に分裂した。 1970年8月ニューヨークで、BPPの分派である黒人解放軍に所属していた青年3名がパトロール中の警察官2名を狙撃し、銃撃戦の末黒人1名が死亡する事件が発生した。また同年10月にはデトロイトで党員が警察官と銃撃戦を展開するなどBPP側は反撃を試みている。 やがて、ニクソン政権の執拗な弾圧により党員が次々と逮捕され、1971年には政治的に柔軟化し、以後は地域社会における奉仕活動に専念し1970年代半ばにはほぼ党は解散していた。その後、クリーヴァー派の黒人解放軍が銃撃戦や爆弾攻撃、脱獄などで1980年代初頭まで抵抗を続けた。
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