警察で修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 10:12 UTC 版)
帰郷後、兵庫県臨時雇巡査、大阪府四等巡査に採用される。1883年(明治16年)、高知の撃剣興行一座が大阪に遠征に来た際、赳太郎は川崎善三郎(無外流土方派)と対戦する。審判は秋山多吉郎であった。なかなか決着がつかず、組討ちにもつれ込む。秋山が「死ぬまでやれ」と励ます中、ついに二人は意識を失い、気が付いたときは二人並んで氷枕に寝かされていた。その3年後、赳太郎は兵庫県巡査教習所武術教員となる。 1887年(明治20年)年明けに上京し、警視庁撃剣世話掛の採用試験を受けて合格した。審査員は上田馬之助、逸見宗助らであった。雪が積もる中、裸足で蜂谷松造と野試合をさせられた後、道場に案内され、真貝忠篤、得能関四郎、兼松直廉、渡辺楽之助など当時の代表的剣客十数名と試合をした。この試験は息つく暇もない厳しいものであったという。同時期に採用された人物に、川崎善三郎と高野佐三郎(中西派一刀流)がおり、赳太郎と合わせて「三郎三傑」と謳われた。 1888年(明治21年)、宮内省済寧館天覧試合に出場。上田馬之助と逸見宗助の試合を見る。上田は4尺余の長竹刀を青眼に、逸見は1尺7寸の小刀を上段に構え、双方とも技を出せず試合を終えた。気で戦った試合に赳太郎は強い感銘を受けたという。 1889年(明治22年)4月、兵庫に戻り、再び神戸警察署撃剣教師、巡査教習所武術教員となる。1895年(明治28年)には、道場「知進館」を開き、剣術・柔術を教授する。同年、日清戦争の広島大本営で開かれた天覧試合に出場し、京都の井沢守正に勝っている。
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