言論活動と「日本国民主義」「新東洋主義」
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「伊東ハンニ」の記事における「言論活動と「日本国民主義」「新東洋主義」」の解説
1930年(昭和5年)、ハンニは滞在先の帝国ホテル内を事務所として雑誌『日本国民』を創刊。川端康成、与謝野晶子等が執筆した。当時時代を席巻していた社会主義・共産主義とファシズムに対峙する日本国民主義を称え、ルドルフ・シュタイナーに影響された友愛理念を基調としながら労働の価値に重きを置く主張を展開した。日本を良くしようとの熱意に燃え根津嘉一郎から『国民新聞』を買収、社長となった。新聞や雑誌だけでなく、しばしば都市や農村を回っては遊説を行い、大宅壮一はハンニをモンテ・クリスト伯に擬えた小説を書いた。当時すでに共産主義の崩壊を予見していた。 しかし『日本国民』創刊直後に山崎種二相手の米相場で大損を出す。『日本国民』は廃刊に追い込まれ、『国民新聞』も経営不振に陥って結局根津に売却。中国へ渡って現地駐在武官との伝で川島芳子と知己になり、近代化や発展を経た新しい東洋文明が世界を席巻するという新東洋主義を称える。この宣伝のため、ビクターレコードからハンニ自身が作詞した『オシャカサン(歩きダンスの歌)』『悲しみの敵(新東洋の歌)』を藤山一郎の作曲・歌でリリース、永松浅造はハンニの評伝を書いた。熱烈な愛国者ハンニは日本が太平洋戦争に突き進むのを憂い、新東洋社を結成して各地を遊説し、何万人もの聴衆を集め、戦争反対の国民運動を起こした。 ハンニは、遊説で集まった商人や資産家に相場や投機の儲け話を持ちかけたという疑いをかけられ、訴えられた。ハンニは起訴されたものの拘禁性精神病を理由に保釈された。投獄中は残酷な拷問を受け後遺症が残った。
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