要塞砲塔加農砲 (日本軍)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 05:11 UTC 版)
要塞砲塔加農砲(ようさいほうとうかのんほう)は、大日本帝国陸軍が要塞に設置した、日本海軍から移管された(保管転換海軍砲)砲塔形式の加農砲である。
- ^ 砲塔四五口径三十六糎加農。砲弾は、海軍の45口径四一式36cm連装砲と同一仕様として共用する予定であった。
- ^ 陸軍は、新規の製造よりも、1基あたり60万円以上の費用削減が見込まれた。50基として3000万円以上の削減である。尚且つ弾薬が無償提供である。 海軍としても、兵器・弾薬・付属品の全量の保管は不可能であるので、無償提供であっても、廃棄費用削減になり、改修費用が1基あたり2500円、50基で12万5千円は収入となる。また軍縮で削減となってしまう工員の雇用維持も行えることとなる。
- ^ 英 ヴィッカース社 式
- ^ アームストロング社の新設計の「アームストロング 1904年型 30.5cm(45口径)砲」の性能は重量386㎏の砲弾を仰角20度で最大射程21,120mまで届かせられる性能を持っていた。この砲塔は左右150度に旋回でき、重量386kgの砲弾を毎分1発の間隔で発射できた。
- ^ 英・アームストロング社 式
- ^ ヴィッカース社の新設計「1905年型 25.4cm(45口径)砲」の性能は235kgの砲弾を仰角30度で最大射程24,600mまで届かせられる。235kgの砲弾を2分間で3発発射できた。
- ^ 「四一式 20.3cm(45口径)砲」の性能は113.4kgの砲弾を最大仰角30度で射程18,000mまで砲弾を届かせる能力を持っていた。砲塔の俯仰角度は仰角30度・俯角5度であったが、露天ならば300度の旋回角度があった。砲身の上下・旋回・装填には主に水圧で補助に人力を必要とした。発射速度は毎分2発である。
- ^ 四五口径三十糎砲塔加農に、敷島型戦艦前弩級戦艦用の四十口径三十糎砲用砲弾が、そのまま流用可能であったのか、改修を施す予定であったのかは不明である。 双方アームストロング30.5cm砲であって、使用砲弾も重量386㎏で同一で、口径のみが異なる。口径が異なるということは装薬量が異なるということであるが、詳細は不明。 陸軍への引渡し品目書に、四十五口径用砲弾と、四十口径用砲弾をワザワザ分けて記載しているので、相違点があるとも考えられるが、単なる供出側である海軍側の経理、会計上の問題とも考えられる。 いずれにせよ、四十口径三十糎砲用砲弾には他に用途が無いので、三十糎砲塔加農砲弾に使用する意図は明らかである。
- ^ 実際問題として、五十口径三十糎砲塔加農(戦艦摂津の長砲身主砲)と四五口径三十糎砲塔加農の砲弾は同一であって、装薬量が異なっていた。 しかし摂津には、50口径砲(長砲身主砲)と45口径砲(中間砲)の30.5cm砲が混載されており、既に廃艦前の現役艦の時より砲戦指揮統一のため装薬量が45口径砲用仕様に統一されて運用されていた。 更には装薬量削減に伴って、50口径砲の薬室容積を変更してあったので、全く同一性能と言って良かったようだ。
- ^ 兵器・装備の撤去は海軍工廠で行われ、以後艦体は実弾標的と撃沈されるか、舞鶴要港部工作部の他、三菱長崎造船所・神戸製鋼播磨造船所・川崎造船所 等の民間造船所にも払い下げられ解体された。
- ^ 海軍は、速やかな廃艦処置が必要であった。
- ^ 工作艦「関東」ではないようである。呉工廠で砲塔改修終了が大正14年3月。千代ヶ崎砲台での砲塔据付工事が4月開始。工作艦「関東」 は、既に前年12月12日に事故で沈没しているから、この運搬作業は「関東」でないことになる。他に「関東丸」という船名の運送船は見当たらない。記録の船名違いであろうか?そもそも同時期に海軍に紛らわしい船名の艦船の存在があるかとの疑問もある。
- ^ 150t起重機1基、20t起重機2基
- ^ 七年式三十糎榴弾砲、四五式二十四糎榴弾砲 等。
- ^ 輸送費用だけで100万が見積もられ一度は却下するも、阿城重砲兵連隊長 稲田正純大佐の強い意見具申により、関東軍特種演習を機会に導入に踏み切った。
- ^ 九〇式二十四糎列車加農は、元々は国内軌で開発されたが、満鉄広軌鉄道用の広軌台車を、既に昭和13年には完成させており、いつでも載せ換えて大陸進出可能な準備は完了していた。
- ^ 「回天の烈風」歴史マガジン文庫。
- ^ 背後の陸地には常設師団が控えていたので、背後からの侵入の心配は無い。
- ^ つまり、遠距離対水上艦戦闘でなく、対上陸用部隊、上陸後された後の陸戦用堡塁も整備が必要だった。
- ^ その後に、佐世保要塞は、長崎要塞に併合となる。
- ^ 「要塞修正計画要領」には、朝鮮海峡防備は西部軍の担当と明記されたが、その際の鎮海湾要塞に対する指揮関係等については不詳である。
- ^ 重砲兵学校 小原台演習砲台。
- ^ 保管転換海軍砲の多分に試験砲的意味合い。縮射砲では射界30度、最大射程1万mを条件としたため演習効果面と、縮射砲では有事戦力化の利用価値小さいために中止。
- ^ 砲塔加農の教導隊的存在。云わば演習砲台。砲台構築は演習砲台基準に準づる。
- ^ *東京湾要塞三崎砲台用 設置中止分1基を含む。
- ^ 最上型重巡洋艦の主砲換装に伴い撤去された15.5cm3連装砲は(5基×4隻=20基)、大和型戦艦の副砲(砲身のみ)と大淀の主砲に流用された。 計画:大和型戦艦 4基×4隻、大淀型軽巡 2基×2隻 =合計20基 ⇒ 大和・武蔵 就工時 4基×2隻=8基 ⇒ 大和・武蔵 改装後 2基×2隻、大淀 2基×1隻=6基 このように、大和型信濃以降打ち切り、大和・武蔵 改装により2基ずつ撤去、大淀型仁淀建造中止により、10基以上の余剰があったはずだが、所在が判明しているのは、この呉と針尾島の分だけで、あとは消息不明である。
- ^ 長砲身の15.5cm砲は、対空射撃可能な高初速な両用砲としても期待されていた。
- ^ 広島県呉市郊外の冠崎西方丘上。現・冠崎公園。
- ^ a b c d e 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録
- ^ 現・日新製鋼呉製鉄所
- ^ a b c d e 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録
- ^ 長崎県佐世保市南方の針尾島の錐崎古里。針尾ICの南東側に突き出た岬の西側。
- ^ 佐世保海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録
- ^ a b 横須賀市鴨居3丁目の鴨居老人福祉センターの裏山。 海軍鴨居洞窟砲台とも呼ばれる。 終戦時には、既に複数の砲の据付完了していたと地元住民証言あり。
- ^ 米軍資料(Survey of Japanese Seacoast Artillery)
- ^ 『最上型重巡 : 軽巡から重巡へと変遷を遂げた傑作艦の足跡』 38巻 学習研究社〈「歴史群像」太平洋戦史シリーズ〉、2002年8月。
- ^ 国本康文 『15糎5砲 最上、大和と高角砲化』 国本戦車塾〈研究原簿シリーズ〉、2011年8月15日。
- ^ 重巡用の50口径三年式2号20cm(実寸20.3cm)は、昭和17年末の呉で青葉第3砲塔修理の際には、予備砲身無しのため撤去して蓋をして25mm機銃を設置している。同時期には最上が佐世保で後部砲塔2基を降ろして航空巡洋艦化しているのに流用されていない。昭和18年末には摩耶が3番主砲塔撤去して横須賀で近代化改装している。可能性があるとすれば時期と場所から摩耶分が該当する可能性がある。 他には、赤城から降ろした50口径三年式1号20cm(実寸正20cm)の4門、完成し試射が完了していた仮称五〇口径三号二〇センチ砲1門。 他に、旧装甲巡洋艦、防護巡洋艦から降ろした45口径20.3cm砲、40口径20.3cm砲が、もっとも多くの数量があったのは事実である。この45口径20.3cm砲は、砲塔四五口径二十糎加農となった41式45口径20.3cm砲の原型となった安式45口径20.3cm砲である。
- ^ 現・海上自衛隊の第1術科学校・幹部候補生学校
- ^ 呉海軍警備隊引渡目録(江田島版)
- ^ 同地が海上自衛隊の第1術科学校・幹部候補生学校となってからも、主砲弾と共に展示されている。 一部に3番砲塔であるとの資料もあるが、4番砲塔が正しいようである。
- ^ 訓練教材として運用可能であったが、果たして実弾の戦闘射撃が可能であったかは疑問である。
- ^ 広島県呉市倉橋町の倉橋島。
- ^ 砲台のあった位置は不明。 倉橋島の東部には、呉海軍工廠砲熕実験部・亀ヶ首試射場があった。 ここには大口径砲の試射可能な発射台(砲座)や、弾火薬庫等の施設もあり、大口径砲台試射の設備を砲台設備に流用した可能性もある。
- ^ 45口径四一式36cm連装砲
- ^ 呉鎮命令第436号による応急砲台、配員 准士1、下士9、兵81。
- ^ ここに充てがう予定の砲の出処は不詳であるが、伊勢・日向の航空戦艦化改装で降ろされた45口径四一式36cm連装砲かであることは、まず間違いない。 該当する45口径四一式36cm連装砲については、日向の5番砲塔は改装前の昭和17年5月に爆発事故で損傷してるので、日向の6番、伊勢の5番・6番が対象になると考えられ、改装は日向が佐世保工廠で、伊勢が呉工廠であることから、伊勢の5番・6番が出処と考えられる。
- ^ 四番砲塔左砲。
- ^ 陸奥の主砲は、昭和45年8月に4番砲塔、46年9月に3番砲塔が引揚げられた。 ・東京「船の科学館」→ 横須賀「ヴェルニー公園」 ・聖山高原「聖博物館」 ・京都「嵐山美術館」→ 白浜「ゼロパーク」→ 呉「大和ミュージアム」 ・津山「日植記念館」 にて計4門が保存されている。 ※ただし日植記念館(津山海軍記念館)にある主砲は、砲口から約2mのあたりで切断されたもので、残りの砲身は放射能を含まない金属として、放射線測定に使用する遮蔽材用にバラされた。
- ^ 現在の主砲は鉄製で、砲塔と一体化して砲身の下から支柱で支持され、甲板の大半も溶接工法で復元された。
- ^ 戦前の写真が存在する。
- ^ 昭和18年5月1日、陸軍南海第一守備隊は、宇品 (広島県) で特設巡洋艦 盤谷丸でクェゼリン (タラワ) へ 進出することになる。米太平洋艦隊戦闘情報班(ハワイ) が、この盤谷丸の動きに関する暗号を解読の結果、「シンガポールの戦いの末に鹵獲したイギリス軍の8インチ砲4門を搭載している」というものだった。陸軍南海第一守備隊は歩兵4コ中隊と野砲1コ中隊 編成のため事実とは大いに異なるが、太平洋艦隊潜水部隊作戦参謀リチャード・G・ヴォージ中佐を介して、当時ジャルート環礁 (ヤルート) 付近を行動中の米潜水艦ポラック(USS Pollack, SS-180) に対して盤谷丸の攻撃指令が出された。5月20日午後、ポラックは発見から20分後に魚雷を4本発射。3本命中し轟沈。 この話しと、 マーシャル諸島のウオッゼ環礁防備のため戦艦三笠と装甲巡洋艦春日から取り外された15.2cm副砲 計6門提供されたという。砲台はクェゼリンの戦いにおいて、米艦隊との交戦により破壊された。 これらの2つの話が出処で混ざっているという意見が多い。
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