西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 02:44 UTC 版)
「ポンペイ」の記事における「西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火」の解説
噴火したのは西暦79年であることは間違いないが、その正確な日付については一部に議論がありはする(以下の解説では、一般に用いられている日付で解説する)。 西暦62年2月5日に発生したポンペイ地震により、ポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で西暦79年8月24日以降(噴火日については後述)の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。 翌8月25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。 当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩のように流れる現象である。プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。ただし、当時のヨーロッパ人は津波という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。 噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに役人を派遣するが、市は壊滅したあとだった。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。
※この「西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火」の解説は、「ポンペイ」の解説の一部です。
「西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火」を含む「ポンペイ」の記事については、「ポンペイ」の概要を参照ください。
- 西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火のページへのリンク