製作・配給を行う
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東京興映は、その設立にあたって、常務取締役に寺田千代松(1910年 - 没年不詳)を迎えている。寺田は、東宝営業部から初代社長・佐生正三郎(1898年 - 1971年)とともに新東宝に入社し、大蔵社長時代には中部支社長であった。新東宝興業社長の岩垣は寺田と同年代であり、九州新東宝の八木は同期、中部新東宝の桑原は5歳下であった。同社は札幌市に北海道支社を置き、支社長には北海道新東宝の山岸が大蔵社長時代に部下としていた船橋六郎が就任した。このようにして、東京興映は、旧・新東宝の最後のエース監督であった小森白が製作、営業畑の重鎮であった寺田を配給のそれぞれ責任者として持った会社であった。したがって、自社でもブッキングが可能であったが、1964年4月16日に大阪に設立された新東宝興業関西(代表・一ッ家貞治、現在の新東宝映画)と配給提携するパターンが多かった。同社と同様に新東宝興業と配給提携を行った葵映画の西原儀一によれば、東京興映は「新東宝映画の製作部と考えた方がいい」「下請けですから。配給はしてませんでした」と回想するが、実際には上記のように営業担当重役を置き、営業支社を構えていた。西原は自らの経営が支払等きっちりしており信用があったのと同様に「小森白さんもお金に堅いんで」と証言しており、東京興映にも経営に関する悪い評判はなかったという。 小森が独立プロダクションとして映画製作を開始した当時に中部新東宝興業の代表であった桑原正衛は、1965年5月26日に関東ムービー配給社を設立、映画の製作・配給を開始しており、新東宝興業系列の興行地図も変化があった。東京興映は、初期においては、純粋な配給会社として、前述の寺坂プロダクションのほか、宮西四郎の宮西プロダクション、大西孝典の映建工芸、加山恵子の加山プロダクション、上松宗夫の上松プロダクション等の製作物を配給することもあった。三田浩の東京企画、祖父江羊己の中映プロダクションですでに監督として作品を発表していた大野裕司(1935年 - )が、同年、同社に助監督として入社、翌1967年(昭和42年)には監督に昇進、同社ではおもに「橘明」「堀越善明」の名で監督した。1965年6月の監督第1作『あばずれ』以来、斎藤邦唯(1929年 - )の扇映画で作品を発表していた渡辺護(1931年 - 2013年)が、小森が渡辺と共同で製作した渡辺の監督第11作『情夫と情婦』(1967年4月公開)を小森は評価し、同社に入社する。このとき渡辺は小森に請われ、「戦力となる監督」として山本晋也(1937年 - )を推薦している。同年10月に公開された美矢かほる、谷ナオミ、辰巳典子が共演した『悪道魔十年』は、小森、渡辺、山本の3人が監督した作品であり、同作の企画は渡辺が立案したものである。
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