藤井寺・教興寺の戦い
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快進撃を続ける正行の前に、正平2年/貞和3年9月17日(1347年10月21日)、ようやく幕府の河内・和泉守護細川顕氏(細川奥州家当主)の本軍が立ち塞がった。顕氏は、10年前、南朝の鎮守府大将軍北畠顕家が落命した石津の戦いでは、北朝の主将高師直と共に軍功を幕府第一と讃えられたほどの勇将である(『出羽上杉家文書』「上杉清子書状」)。河内国藤井寺(大阪府藤井寺市の葛井寺)と河内国教興寺(大阪府八尾市教興寺の教興寺)にて、正行は和泉和田氏棟梁和田助氏らを率い、六角氏当主佐々木氏頼らを率いる顕氏の軍勢と衝突し、正行は初めての大合戦に挑んだ。 藤井寺・教興寺の戦いについては、軍記物語『太平記』流布本巻25「藤井寺合戦の事」では長々と描かれているが、そもそも正行の初陣と描かれている点からして史実と食い違っている。史料上は、以下のような簡潔な記述しかわからない。 『和田文書』「和田助氏軍忠状」「一 同十七日、藤井寺合戦時致忠節畢、」 『園太暦』「〔河州教興寺合戦事〕九月十九日天晴、今日聞、河州教興寺合戦、顕氏得理之処、凶徒入夜俄襲来、官軍敗績多殞命、或又死生不分明之輩多々云々、」 『師守記』九「九月十八日丁巳、天陰、巳刻已後雨降、酉刻止雨、今日聞、昨日於河内有合戦、佐々木大夫判官手物多打死、」 以上の一次史料に加えて、14世紀後半に編纂された『尊卑分脈』によれば、この戦いで幕府方の氏頼の弟である佐々木光綱が戦死したという。 史料が少ないため、『大日本史料』編纂者・藤田精一・生駒孝臣の各研究者で、以下のように、戦いの経過の詳細について解釈が違う。ただし、正行が夜襲を決定打として顕氏に大勝したとするのは、どの研究者も同じである。 『大日本史料』綱文の解釈では、9月17日昼、正行と顕氏の間で「藤井寺の戦い」が発生。この時は決着がつかず、一度戦いは中断したが、同17日の夜に正行が顕氏を夜襲して「教興寺の戦い」が発生し、顕氏の軍を散々に打ち破ったという。 藤田は、『太平記』と『細々要記』8月19日条も利用して解釈を行う。藤田によれば、幕府軍は、天王寺・堺方面の顕氏の本軍と、八尾方面の第二軍に分かれていた。この両軍は、楠木氏の本城である東条(大阪府富田林市南東端)へ向けて並行して進軍した。そして、藤井寺や誉田八幡(大阪府羽曳野市誉田)で交戦し、幕府側が南朝側を圧倒した。ところが、優勢に慢心していた各方面の幕府軍は、9月17日夜に楠木党からの奇襲を同時に受け、夜戦である「藤井寺の戦い」(正行本軍と顕氏本軍の戦い)と「教興寺の戦い」(第二軍同士の戦い)が並行して発生し、どちらの戦いでも幕府側はおびただしい死傷者を出して、南朝軍の大勝に終わったという。 生駒の解釈では、まず9月17日に正行が顕氏を「藤井寺の戦い」で撃破。しかし、顕氏は河内国守護であるため領国を完全撤退することができず、敗北後も同国に滞在していた。そこに、9月19日昼、「教興寺の戦い」が発生し、この戦いは顕氏のやや優勢で終わった。しかし、同19日夜に正行が夜襲を仕掛け、顕氏を再撃破したとする。
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