藤井寺・教興寺の戦いの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)
「楠木正行」の記事における「藤井寺・教興寺の戦いの影響」の解説
正行の活躍によって、各地の南朝軍も鼓舞されつつあった。「良海上人」という人物が北朝公卿洞院公賢に報告した話によれば、東国で小山氏と小田氏が南朝側に復帰して蜂起を起こし、さらに宇都宮氏の武将が吉野から本国の下野国(栃木県)へ発向したという(『園太暦』9月20日条)。 また、正行の大勝は9月27日までには九州で戦う南朝征西大将軍懐良親王にまで伝わり、五条頼元ら征西将軍府は、配下の恵良惟澄(阿蘇惟澄)らを鼓舞する材料に使用している(『阿蘇文書』)。他にも、頼元が北朝方の宇治惟時(阿蘇惟時)の勧誘交渉に取り掛かるなど全体的に征西将軍府の活動が活発化しており、藤田精一は、これも正行の中央での活躍のおかげではないかと推測している。 一本『細々要記』によれば、さらにこのころ、既に正行は京都に潜入しており、幕府中枢を奇襲して尊氏や直義を近江国に追いやったという流言飛語まで巷で飛び交うようになったという。
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