薬局方草案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:36 UTC 版)
「アントン・ヨハネス・ゲールツ」の記事における「薬局方草案」の解説
司薬場での主な業務は薬品試験であるが、当時日本には国定の薬局方が存在せず他国の複数の薬局方を基準としていたため混乱が生じていた。1875年(明治8年)、内務省衛生局長であった長與專齋は日本薬局方の必要性を考え、京都司薬場監督であったゲールツと大阪司薬場のオランダ人教師のドワルスに日本薬局方草案を作成させ、局方制定のための準備を進めた。ゲールツとドワルスは『第1版オランダ薬局方』(1851年刊)を参考に草案をまとめ、1877年(明治10年)に長與に提出した。この草案は、収載薬品は604品目、製剤総則8項目、付表17種、索引などで構成されており、生薬名が漢字で記載されていること、西洋生薬と成分・薬効が類似する日本産生薬を代用薬として解説していることなどの特徴があった。ゲールツ自筆のこの草稿は、現在、国立医薬品食品衛生研究所の図書館に保管されている。 1880年(明治13年)10月、長與は内務卿・松方正義に日本薬局方の必要性を建議する。この建議を経て1881年(明治14年)1月、日本薬局方編集委員が任命される。ゲールツは、長與や陸軍軍医総監・松本順、海軍軍医総監・戸塚文海らとともに編集委員に任命される。当初、日本薬局方の編集にはゲールツとドワルスの草案を原案として採用される予定であった。しかし、明治政府がドイツ医学を採用したことや、『第2版オランダ薬局方』『第1版ドイツ薬局方』『第5版アメリカ薬局方』などが1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて刊行されたことから最終的には採用に至らず、改めてこれら諸外国の薬局方を参考に、委員全員が理解できるドイツ語で草稿を作成し直すこととなった。ゲールツが中心となりドイツ語で草稿を作成し、柴田承桂が日本語に翻訳するという作業が繰り返された。ゲールツは1886年(明治19年)の初版「日本薬局方」の公布を待たず、1883年(明治16年)8月15日に横浜で腸チフスにより急逝する。 現在、横浜外国人墓地に妻のきわとともに眠っており、墓碑を神奈川県薬剤師会が管理している。また国立医薬品食品衛生研究所(川崎庁舎)の正門脇に記念碑がある。
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