著者・馬建忠
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同書の著者である馬建忠は、1845年に江蘇省丹徒県(現・鎮江市丹徒区)にて、『文献通考』の撰者である馬端臨の第20世の子孫として生まれた。洗礼名をマチアスというカトリック教徒であったが、幼少時から塾に通って伝統的な教育を受け、科挙のための受験勉強もした。1852年、上海郊外にあるカトリック系の除匯(じょわい)公学(のちの震旦大学)に入学し、伝統的な文言のほか、人文科学・自然科学や、ラテン語・ギリシャ語・英語・フランス語の教育を受けた。馬は李鴻章よりフランス語の能力を高く買われ、1877年、福州船政局が学生を英仏両国に留学させるに伴い、32歳の時に随員としてフランスに派遣された。留学の目的は外交や法律を学ぶためであった。1880年フランスから帰国すると、李鴻章の部下として北洋艦隊の建設に従事したほか、上海の輸船招商局の会辦などを務めるなどした。輸船招商局とは、1872年李鴻章が長江航路を含む中国の海運業を独占していた外国汽船会社から、その「利」を奪い返す目的で作られた汽船会社である。これ以降1880年代はじめまでに、鉱業、鉄道、電信をはじめ近代工業が、「官督商辦」という半官半民方式で多数設立された。これらの会社は、外国資本による競争の圧力から弱小な中国企業を守るという名目で、税制上の優遇措置や、官用・官物の独占、一定期間の独占権などの特権を享受した。一方で、李鴻章による軍艦購入費の建て替えや、生産物を市場価格以下で国家へ引き渡しを強要されるなどもした。馬建忠は、この輸船招商局の官督商辦方式よりも民族資本の形成を図るべきと主張した。また、彼は海軍論において専門家の育成には十分に時間の必要なことを論ずるなど、単なる洋務論から一歩抜きんでた存在であった。1895年、日清戦争後の下関で行われた日清講和交渉のときにも随員の一人として来日するなど外交面でも活躍した。しかし、科挙の合格資格を持たなかったので、官界にては一定以上(2品官の道員以上)の出世は見込めなかった。
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