著者・馬建忠とは? わかりやすく解説

著者・馬建忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:17 UTC 版)

馬氏文通」の記事における「著者・馬建忠」の解説

同書著者である馬建忠は、1845年江蘇省丹徒県(現・鎮江市丹徒区)にて、『文献通考』の撰者である馬端臨の第20世の子孫として生まれた洗礼名マチアスというカトリック教徒であったが、幼少時から塾に通って伝統的な教育を受け、科挙のための受験勉強もした。1852年上海郊外にあるカトリック系の除匯(じょわい)公学(のちの震旦大学)に入学し伝統的な文言のほか、人文科学自然科学や、ラテン語ギリシャ語英語・フランス語教育受けた。馬は李鴻章よりフランス語能力高く買われ1877年福州船政局学生英仏両国留学させるに伴い32歳の時に随員としてフランス派遣された。留学目的外交法律を学ぶためであった1880年フランスから帰国すると、李鴻章部下として北洋艦隊建設従事したほか、上海の輸船招商局の会辦などを務めるなどした。輸船招商局とは、1872年李鴻章長江航路を含む中国海運業独占していた外国汽船会社から、その「利」を奪い返す目的作られ汽船会社である。これ以降1880年代はじめまでに、鉱業鉄道電信をはじめ近代工業が、「官督商辦」という半官半民方式多数設立された。これらの会社は、外国資本による競争圧力から弱小中国企業を守るという名目で、税制上の優遇措置や、官用官物独占一定期間独占などの特権享受した一方で李鴻章による軍艦購入費の建て替えや、生産物市場価格以下で国家引き渡し強要されるなどもした。馬建忠は、この輸船招商局の官督商辦方式よりも民族資本形成を図るべきと主張したまた、彼は海軍論において専門家育成には十分に時間必要なことを論ずるなど、単なる洋務論から一歩抜きんでた存在であった1895年日清戦争後下関行われた日清講和交渉のときにも随員一人として来日するなど外交面でも活躍した。しかし、科挙合格資格を持たなかったので、官界にては一定以上(2品官道員以上)の出世見込めなかった。

※この「著者・馬建忠」の解説は、「馬氏文通」の解説の一部です。
「著者・馬建忠」を含む「馬氏文通」の記事については、「馬氏文通」の概要を参照ください。

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