著者・慶福院花屋玉栄
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本書の著者とされる慶福院花屋玉栄は、近衛稙家の娘である。近衛稙家は『紹巴抄』の著者里村紹巴などの『源氏物語』についてのさまざまな著作を持つ人物たちと交流があり、また現在代表的な青表紙本系統の写本としてさまざまな校本の底本に採用されている大島本として知られている写本の桐壺巻を書写した聖護院第25代門跡である道増は玉栄の叔父にあたり、夢浮橋巻を書写した大僧正法務准三后道澄は玉栄の兄弟にあたるなど、玉栄は『源氏物語』について深い知識を獲得しうる環境にあったと見られる。花屋玉栄には、本書の他に本書と同様に『源氏物語』について語釈や巻名の由来などを内容としているが啓蒙書的性格のより強い初心者向けの注釈書である1602年(慶長7年)4月の成立とされる『玉栄集』なる書物も存在する。 当時の最高権力者である豊臣秀吉は、晩年になってから『源氏物語』に興味を示していたが、同人が『源氏物語』を学ぶのに使用したらしい秀吉自筆書写本『源氏物語のおこり』(阿波蜂須賀家旧蔵・現専修大学図書館蔵本)も花屋玉栄が北政所おねねの侍女「ちやあ」(秀吉の側室であったいわゆる「淀君=お茶々」とは別人で玉栄の姪にあたる古市胤子のこと)に贈った源氏物語古系図を元にその冒頭か末尾にあった『源氏物語のおこり』の部分を秀吉が書写したもので、かつ完成した秀吉自筆書写本には花屋玉栄が改めて奥書を書き加えている。こうした状況から考えて、秀吉は花屋玉栄から『源氏物語』について継続的な指導を受けていたのではないかとも考えられている。このような出来事は、花屋玉栄の『源氏物語』についての見識が当時から高く認められていたことに加えて、豊臣秀吉が豊臣姓を名乗る前には花屋玉栄の弟である近衛前久の猶子となって藤原姓を名乗っていた時期があるなど、近衛家が五摂家の中でも豊臣家とは最も近い関係にあることの反映であるとも見られる。
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