著者名の再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 07:44 UTC 版)
名越左源太から島津家に献上された原本は門外不出とされたが、明治に至り「稀覯本」として各方面から注目され、数々の写本が作成された。その一方で原本は早くに失われ、著者に関しても「不明」とされてきた。 ところが大正11年(1922年)、海軍中将の東郷吉太郎が鹿児島第一中学(現・鶴丸高校)において「幕末期に日本沿岸に来航した異国船」を論じ、資料として名越左源太の日記『見聞雑事録』の安政五年の項に描かれた、奄美大島子宿村沖に現れたアメリカ船のスケッチを提示する。その折、同席していた鹿児島第一中学教諭で生物学者の永井亀彦は、その絵が『南島雑話』の作風との酷似に気が付き、『南島雑話』の著者は名越左源太だと確信する。 昭和9年(1934年)、永井は研究成果をまとめた『高崎崩の志士 名越左源太翁』を自費出版している。
※この「著者名の再発見」の解説は、「南島雑話」の解説の一部です。
「著者名の再発見」を含む「南島雑話」の記事については、「南島雑話」の概要を参照ください。
- 著者名の再発見のページへのリンク