著者をめぐる議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 09:29 UTC 版)
これらの書簡では、著者はパウロと名乗っている。そして、第二テモテ書の第4章6節から8節にかけて、自らの殉教が近いことを予期しているくだりがある。これらをそのまま受け入れる場合、パウロは西暦60年代後半に殉教したと見なされているため、牧会書簡の執筆年代はそれに近い時期と考えられる。フェデリコ・バルバロは第一テモテ書とテトス書の執筆を65年のマケドニアでとし、第二テモテ書を66年のローマと推定した。フランシスコ会訳聖書では真正書簡とする場合には63年から67年の間とされている。福音派の『新聖書辞典』や『新実用聖書注解』では64年から67年と推定されている。同じく福音派の尾山令仁は、第一テモテ書を66年頃のマケドニア、テトス書を67年頃のエフェソ、第二テモテ書を67年のローマと推測した。 それに対し、擬似パウロ書簡と見る場合、三書簡すべてがパウロとは別の同一人物の手になるといわれる。田川建三は、擬似パウロ書簡の立場に立つ論者でそれ以外の可能性を示す論者はいないとまで述べている。三書簡をすべて同一人物による偽名書簡と見なしたのは、1812年のJ・G・アイヒホルンが最初である(第一テモテ書のみを偽名書簡としたのは1807年のフリードリヒ・シュライアマハーが最初で、偽名書簡の可能性を本格的に提示したのも彼が最初とされる)。 辻学は、その作成者が1つの書簡として提示せずに3つの書簡に分けたのは、2世紀の時点ですでに存在していたパウロ書簡集に対し、別系統のパウロ書簡集が存在していたように見せかけるためと、複数の独立した書簡で共通する主題が語られていることによる説得力の増強を狙ったという可能性を指摘した。川島貞雄は3書簡に分けた理由について、ヨハネ書簡も3通であることを踏まえ、当時の慣習に関連する可能性を指摘した。 擬似パウロ書簡と見る場合の執筆年代は、西暦100年前後に設定されることが多い。下限に設定されるのはマルキオンの存在である。彼が編纂したいわゆる『マルキオン聖書』(140年頃)には牧会書簡が含まれていなかった。これについて、テルトゥリアヌスはマルキオンが排除した旨を証言しており、これを信じる場合、マルキオンの時代には存在したことになる。他方、田川建三はマルキオンの弟子たちが牧会書簡を排除していないことから、マルキオン自身は単に存在を知らなかったのだろうとし、その時点では牧会書簡が存在していなかった可能性を指摘した。これに対して辻学はアンティオキアのイグナティオス(2世紀初頭歿)の書簡から読み取られている牧会書簡への仄めかしなども踏まえ、マルキオンらの沈黙が直ちにそれ以降の執筆と結び付けられるわけではないと反論している(この点、後述も参照)。
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