芸者を乗せた平屋の山車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:07 UTC 版)
1876年(明治9年)、それまで各町内にあった廊を新町に集め花柳界が作られる。 明治中頃から明治終わりにかけて、新町では芸者と三味線による門付けが行われ、明治後期から昭和初期にかけては、舞台で芸者総出の手踊りが行われる。 1902年(明治35年)頃、舞台を真似た踊場(座敷)に東屋風の屋根を付け、芸者を乗せる山車が新町で製作される。この頃、新町は下町と共に下新組を創設。 神明組、北組、東西組(順不同)の山車も製作され、大正初期には現在と同じ形の山車が製作されている。 その後は戦争による中断【1940年(昭和15年)頃~終戦】があるものの、神明組が1945年(昭和20年)に樽神輿で祭りに復帰。1946年(昭和21年)には山車を新造する。新町も単独で1946年(昭和21年)樽神輿で祭りに復帰すると、1947年(昭和22年)には驛新組として山車を新造する。北組も1947年(昭和22年)山車を新造し祭りに復帰した。東西組は、戦後休止したまま消滅する。 1971年(昭和46年)、西栄町が山車を新造し西栄組として祭りに参加。山車製作に当たっては、善良寺の縁の下に保管されていた東西組の車輪を使用する。この他、善良寺には屋根や台等があり、戦前善良寺で山車の製作が行われていたと考えられる。 1972年(昭和47年)、本町がこども山車を製作し本町組として祭りに参加。1991年(平成3年)には現在の大きさの山車を製作し、1999年(平成11年)に本組となる。 1975年(昭和50年)、北組はこども山車に変更するものの、1988年(昭和63年)に現在の山車へ再度変更する。 ※ 驛新組の山車の表記は「花車」であるが、便宜上「山車」と表記する。
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