航海およびアメリカズ・カップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/28 09:48 UTC 版)
「ハロルド・スターリング・ヴァンダービルト」の記事における「航海およびアメリカズ・カップ」の解説
少年の頃から彼はニューヨーク州ロングアイランドのコネコート川岸のアイドル・アワー、ロードアイランド州ニューポートのマーブル・ハウスなどヴァンダービルト家の邸宅や、後年には継父オリヴァー・ベルモントが所有するニューポートのベルコート・キャッスルで夏季を過ごした。成人するとヨットへの興味が深まり、1922年から1938年の間にレガッタでキングス・カップで6回、アスター・カップで5回優勝した。1925年、フロリダ州パームビーチにエル・ソラノと呼ぶ自身の豪華な別荘を建設。ちなみにこの邸宅は1980年、ビートルズのジョン・レノンに亡くなる直前に購入された。 1930年、アメリカズ・カップでの防衛艇J-class yacht のエンタープライズ号の優勝によりヨット競技での頂点に立った。この時の優勝により、1930年9月15日、彼は『タイム』誌の表紙を飾った。1934年、最初の2レースで勝った強敵イギリスのエンデヴァー号と対峙。しかし彼のレインボー号はその後連続3勝し防衛に成功。1937年、レンジャー号で3度目の防衛を果たし、J-class yacht での最後の防衛となった。没後の1993年、アメリカズ・カップの殿堂に選出された。後年、ニューヨーク・ヨット・クラブの会長となり、アメリカズ・カップの多くの防衛に貢献した。 1935年秋、北アメリカ・ヨット競技連盟(現US SAILING)の会長フィリップ・J・ルーズベルト、ロング・アイランド・サウンドヨット競技協会の会長ヴァン・マール=スミス、およびヘンリー・H・アンダーソンと共にヨット競技のルールについて考察。4名はこれまでのright-of-way ルール改正を検討。6週間集中して検討したが、結局無駄に終わった。詳細ではなく原理であり、これが問題となった。彼らはスタートラインからやり直さなくてはならなかった。 1936年、3人の支援を受け彼は改正法を展開させ、これを印刷し、アメリカとイギリス双方で彼が知り得る限りのヨット競技関係者に送付した。これらは実質的には無視される形となったが、1938年の第二版では改良された。彼らが四半世紀かかり展開させたルールが1960年にようやく国際ヨット競技連盟(現国際セイリング連合(ISAF))に受け入れられるまで北アメリカ・ヨット競技連盟の数々の委員会に所属し続けた。
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