自作自演による初録音
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「戦争レクイエム」の記事における「自作自演による初録音」の解説
1962年1月、まだ初演前の『戦争レクイエム』の手稿をブリテンから見せられたデッカ・レコードのプロデューサー、ジョン・カルショーは作品の素晴らしさに気づき、ただちにレコード化を思い立った。デッカの重役はレコーディングにかかる経費を抑えるため初演をライブ録音することを提案したが、カルショーは大聖堂での演奏が響きすぎることなどを理由に初演を録音することには反対し、彼の主張どおり、日をあらためてセッション録音が行われることとなった。ただし、ブリテンの体調が良くなかったこともあって録音の計画は延期を重ね、初演の翌年にずれこんだ。 1963年の1月3日~5日、7日、8日、10日の6日間にわたって、ロンドンのキングズウェイ・ホール(英語版)でデッカによりレコーディングが行われた。オーケストラはバーミンガム市交響楽団からロンドン交響楽団に変わり、指揮はブリテンが1人で行った。テノールとバリトンの独唱者は初演に引き続きピアーズとフィッシャー=ディースカウが務め、今回はヴィシネフスカヤの参加が可能となったため、ようやくブリテンが構想した理想的な独唱者が一堂に会することとなった。なお、当時フィッシャー=ディースカウはデッカと契約関係になかったため出演交渉には困難が予想されたが、カルショーに頼まれたブリテンがフィッシャー=ディースカウに電話をかけ、フィッシャー=ディースカウは当時の契約会社に交渉し、デッカの録音に自分が参加することを認めさせた。 カルショーはブリテンが意図した音楽の遠近感を出すため、混声合唱とソプラノ独唱はオーケストラ後方のバルコニーに配置してマイクを置き、男性独唱と室内オーケストラは指揮者の後方に、児童合唱はバルコニーの角にマイクをつけずに配置するなど、セッティングを重視してレコーディングを行った。ただし、この独特なセッティングは思わぬトラブルも招いた。初めて参加したヴィシネフスカヤが、ソリストのうち自分だけ立ち位置が違っていることを差別だと誤解して激しく取り乱し、初日の録音はヴィシネフスカヤ抜きで行わざるを得なかったのである。なお、その後ヴィシネフスカヤの誤解は解け、2日目からは何事もなかったようにレコーディングに参加した。 完成した自作自演のレコードは、発売から1年で20万枚という、クラシック音楽としては異例の売り上げを記録し、第6回グラミー賞において「クラシカル・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「最優秀合唱(オペラを除く)パフォーマンス賞」、「最優秀クラシック・コンテンポラリー・作曲賞」の3賞に輝き、日本においても音楽之友社の第1回レコード・アカデミー大賞を受賞している。 なお、レコーディングの際、カルショーはブリテンに無断でリハーサルの様子を隠し録りしていた。16時間に及ぶテープから50分に編集して作られた特製レコードは、同年11月にブリテン50歳の誕生日を祝って贈呈されたがブリテンはこのサプライズを喜ばず、特製レコードはその後封印されてしまった。この音源は1999年に再発売された自作自演のCDに付けられ、ブリテンが自作をリハーサルする様子が一般にも知られるようになった。そこでは、ユーモアを交えながらも、「ヒステリーを起こすように」「もっと背筋が寒くなるように」など、言葉巧みに自作のイメージを伝えようとするブリテンの仕事ぶりが記録されている。
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