自作演奏会、アメリカでの紹介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:42 UTC 版)
「交響曲第7番 (マーラー)」の記事における「自作演奏会、アメリカでの紹介」の解説
1904年、夏の休暇が明けた10月にはケルンで交響曲第5番を指揮。アムステルダムで交響曲第2番、交響曲第4番を指揮している。12月14日と22日にはウィーン・フィルを指揮して交響曲第3番のウィーン初演を果たした。 同年11月6日、ニューヨークでウォルター・ダムロッシュが第4番を指揮し、マーラーの音楽がアメリカに初めて紹介された。 翌1905年1月29日には、『少年の魔法の角笛』の6曲、『亡き子をしのぶ歌』、『リュッケルトの詩による歌曲』4曲の初演を指揮した。 同年5月、ウィーン分離派の画家カール・モル(アルマの義父)の家で演出家マックス・ラインハルトと知り合う。5月21日にはストラスブールのアルザス音楽祭で交響曲第5番を演奏し、このときロマン・ロランと出会う。 11月8日、ベルリンでオスカー・フリートが指揮する交響曲第2番の上演に出席、このとき合唱指揮を務めたオットー・クレンペラーと知り合う。
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