縫いぐるみの熊抱きバターが溶ける
作 者 |
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季 語 |
熊 |
季 節 |
冬 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
説明の必要はないだろう。家庭の平和な一時である。見たままをそのまま言葉につないだような作品ながら、小さい子供の自我と、それを見守る母親の気持ちを余すところなく伝えている。部屋に広がるバターの香りや縫いぐるみの柔らかな感触。ゆったりとした語調の中で、こぢんまりとした豊かな時間が流れてゆく。溶けるバターのイメージは、その短い経過の中で、その子がやがて大人になり、また子供の頃の思い出に還ってゆく、そんな錯覚も起こさせる。数十秒の間に何十年かが、時代とともに立ち顕われてくるような、不思議な、そして懐かしい感覚である。 縫いぐるみを抱く子供の目線はどこに向いているのだろうか。空想の夢の世界にであろうか。それとも自分を管理する親達の方向へと、ぼんやりと向けられたものだろうか。あるいは自分の将来の居場所へ向かって無意識に投げかけられているのだろうか。屋内の一隅に置かれた心の所在を、句は温かく見守っている。その優しさと真面目さがかえって切ない感じを与える。 もう一つ興味深いのは、この熊とバターの取り合わせである。二つとも、手作りのようにも見え、また工場での大量生産品のようにも見える。そう思うと、この作品にはかなり幅広い時代背景が適用できる。戦前のアメリカであってもよいし、経済成長期の文化住宅であってもよい。現代のマンションの広いリビングにもしっくりとくる。そうした近現代の仕組みに支えられた家族の慎ましい幸せが、この句の中に凝縮されているようで、なんとも微笑ましいのである。 作者は「白燕」、「葦」などに所属。「着物着る沖に白波たつあたり」、「夕顔の水にうつるや火の回帰」など、静かで美しい感性と、温かい思慮に包まれた作品が多い。同じ句集に、「妻でなく母でなくほおずきの朱影」という句があるが、家族や周囲の幸せをいつも控えめに支えてきた、そんな日常が見て取れる。この句もそうした中で生まれたものだろうが、家庭という枠組みを超え、時代と経済に共通した幸福感を言い当てているようで面白い。 Photo by (c)Tomo.Yun |
評 者 |
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備 考 |
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