統一以後の軍事活動
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「エンリコ・チャルディーニ」の記事における「統一以後の軍事活動」の解説
イタリア王国が成立しローマやヴェネツィアを除きイタリア半島の統一がほぼ完成したが、南イタリアではカルミネ・クロッコをはじめとする山賊が新政府に抵抗し重大な脅威となった。そのため1861年、チャルディーニはナポリに派遣された。ここでチャルディーニは山賊やその関係者の大量逮捕や裁判を経ない処刑、必要以上に苛烈な弾圧を実施し、それに伴う農家や一般住民への被害を出した。そのことからチャルディーニの山賊に対する行動は21世紀現在でも物議を醸している。 チャルディーニが関与した山賊関連の出来事としてはポンテランドルフォとカザルドゥーニの事件(イタリア語版)が最も有名である。この事件はポンテランドルフォとカザルドゥーニという二つの農村に山賊が侵入したことに端を発し、特にカザルドゥーニでは山賊対策や治安維持のために駐屯していたイタリア王国軍兵士45名がコジモ・ジョルダーノ(イタリア語版)ら山賊によって殺害された。それを受けチャルディーニ率いる軍は二村を巻き込んで山賊への報復として虐殺行為や家々への放火を行い、子供を含む一般市民にも多数の犠牲者を出した事件である。 1862年8月29日にはアスプロモンテの戦いが発生。この戦いはローマの併合を急ぎたいジュゼッペ・ガリバルディがシチリア島からローマへ向かって進軍し、一方で教皇領との軍事的衝突を避けたいイタリア王国がガリバルディを止めるため王立軍を派遣、アスプロモンテで両者が軍事衝突した事件である。結果はイタリア王国側の勝利でガリバルディは捕虜となったが、この勝利で主導的役割を果たしたのは1861年末にシチリア総監に就任しガリバルディを阻止することを決めたチャルディーニ、およびチャルディーニに派遣され実際に王立軍を指揮したエミリオ・パッラヴィチー二(イタリア語版)大佐などである。なお、ガリバルディとチャルディーニは思想の面でも対立していたことが知られており、チャルディーニはガリバルディに向けた手紙で『貴殿は王と同列にいようとする。貴殿は王について仲間のような馴れ馴れしい様子を装って語る。貴殿は、そのような奇妙な出で立ちで議会に現れて、礼儀を守る必要がないとでも思っておられるようだ。』と明確な不満を明らかにしている。 また普墺戦争に連携する形で1866年に勃発した第三次イタリア独立戦争にも指揮官として参戦し、フェラーラからイゾンツォ川へのイタリア王国軍の前進に貢献した。一方でチャルディーニやアルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラが率いて行われたクストーツァの戦い (1866年)(英語版)はオーストリア軍を相手に敗北を喫しており、その原因としては士官の経験不足のほか、彼ら指揮官の高齢化などが指摘されている。
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