統一以後の軍事活動とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 統一以後の軍事活動の意味・解説 

統一以後の軍事活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 10:28 UTC 版)

エンリコ・チャルディーニ」の記事における「統一以後の軍事活動」の解説

イタリア王国成立しローマヴェネツィア除きイタリア半島統一がほぼ完成したが、南イタリアではカルミネ・クロッコはじめとする山賊新政府抵抗し重大な脅威となった。そのため1861年、チャルディーニはナポリ派遣された。ここでチャルディーニは山賊やその関係者大量逮捕裁判経ない処刑必要以上に苛烈弾圧実施し、それに伴う農家や一住民への被害出したそのことからチャルディーニの山賊対す行動21世紀現在でも物議を醸している。 チャルディーニが関与した山賊関連出来事としてはポンテランドルフォカザルドゥーニ事件イタリア語版)が最も有名である。この事件ポンテランドルフォカザルドゥーニという二つ農村山賊侵入したことに端を発し、特にカザルドゥーニでは山賊対策治安維持のために駐屯していたイタリア王国軍兵45名がコジモ・ジョルダーノ(イタリア語版)ら山賊によって殺害された。それを受けチャルディーニ率いる軍は二村巻き込んで山賊への報復として虐殺行為家々への放火行い子供を含む一般市民にも多数犠牲者出した事件である。 1862年8月29日にはアスプロモンテの戦い発生。この戦いローマ併合急ぎたいジュゼッペ・ガリバルディシチリア島からローマへ向かって進軍し一方で教皇領との軍事的衝突避けたいイタリア王国ガリバルディ止めるため王立軍派遣アスプロモンテ両者軍事衝突した事件である。結果イタリア王国側の勝利ガリバルディ捕虜となったが、この勝利主導的役割果たしたのは1861年末にシチリア総監就任しガリバルディ阻止することを決めたチャルディーニ、およびチャルディーニに派遣され実際に王立軍指揮したエミリオ・パッラヴィチー二(イタリア語版大佐などである。なお、ガリバルディとチャルディーニは思想の面でも対立していたことが知られており、チャルディーニはガリバルディ向けた手紙で『貴殿は王と同列にいようとする貴殿は王について仲間のような馴れ馴れしい様子装って語る。貴殿は、そのような奇妙な出で立ち議会現れて、礼儀を守る必要がないとでも思っておられるようだ。』と明確な不満を明らかにしている。 また普墺戦争連携する形で1866年勃発した第三次イタリア独立戦争にも指揮官として参戦しフェラーラからイゾンツォ川へのイタリア王国軍の前進貢献した一方でチャルディーニやアルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラ率いて行われたクストーツァの戦い (1866年)(英語版)はオーストリア軍相手敗北喫しており、その原因としては士官経験不足のほか、彼ら指揮官高齢化などが指摘されている。

※この「統一以後の軍事活動」の解説は、「エンリコ・チャルディーニ」の解説の一部です。
「統一以後の軍事活動」を含む「エンリコ・チャルディーニ」の記事については、「エンリコ・チャルディーニ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「統一以後の軍事活動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「統一以後の軍事活動」の関連用語

1
6% |||||

統一以後の軍事活動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



統一以後の軍事活動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエンリコ・チャルディーニ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS