結婚生活と『Neues Blumenbuch』
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「マリア・ジビーラ・メーリアン」の記事における「結婚生活と『Neues Blumenbuch』」の解説
1665年、マリアは義父の徒弟だったヨハン・アンドレアス・グラフと結婚し、2年後には最初の娘ヨハンナ・ヘレンを授かったのを機にニュルンベルクに移り住んだ。その地でも彼女は、羊皮紙と亜麻布に描いた絵の作成や、刺繍用図案の作成を続けた。それらは評判を呼び、たくさんの生徒に教えるなどで生計を助け、また彼女の知名度を押し上げた。裕福な階級とも交流が生まれ、マリアは彼らの美しい庭園を見る機会を増やすことができた。 訪問した庭園で、マリアは昆虫、特にイモムシと蝶のライフサイクル観察を始めた。当時の学者たちはカトリック教会と密接に関連したアリストテレス学派の考えに基づき、虫は「腐った泥から自然発生した」生き物であり「悪魔の生物」だという考え、すなわち自然発生説を支持していた。この優勢な意見に真っ向対立すべく、マリアはイモムシが蝶に至る実際の変化を綿密に調査し、えさとなる植物や昆虫がさなぎに変わる過程を詳細に記録し、それぞれの段階をスケッチした。この考えは異端とも見なされ、魔女の嫌疑がかけられそうになったとも言われる。しかしこの頃から彼女は、単なる画家から科学者への変貌を始めていた。 1675年、マリア28歳の時にこの最初のスケッチブックが『Neues Blumenbuch』第1巻として発売された。夫ヨーハンによって出版されたもので、同書の銅版刷りの見事な草花の写生画には、画家や刺繍作家の図案に役立てるねらいがあった。次女のドロテア・マリア誕生の翌年となる1679年には『ヨーロッパ産鱗翅類‐その変態と食草』を発売した。この本では、違う種の蝶が成長する様を、えさとした植物と一緒に1枚の絵で紹介されている。この頃にはアントニ・ファン・レーウェンフックとも親交があり、彼の顕微鏡を借り受けて研究をしたとも言われている。
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