結党〜第一次大戦期
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「オーストリア社会民主党」の記事における「結党〜第一次大戦期」の解説
社会民主党の源流は、1874年のノイデルフル会議で結成された、オーストリア=ハンガリー二重帝国支配下の諸民族の社会主義政党の連合体である。その後1880年代にこの連合体は分裂状態に陥ったが、1888年、V・アドラーの努力により1888年12月30日から翌1889年1月1日にハインフェルト大会が開かれ、ここでラッサール派のグループとマルクス派のグループが再統合され、「オーストリア社会民主労働党」(以下「社会民主党」)が結党された。この大会で決定されたハインフェルト綱領は、労働者の経済的従属・政治的無権利状態からの解放、労働手段の社会化、労働者保護立法の制定、8時間労働制の実施、選挙法の改革などを主張していた。1889年には機関紙『労働者新聞(Arbeiter Zeitung)』(1936年まで発行)、1907年には理論機関誌『闘争(Der Kampf)』(1938年まで発行)がそれぞれ創刊され、特に後者はレンナー・バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となった。 結党時の党員数は15,000人で、普通選挙が一部導入された1897年の選挙で初めて帝国議会でに進出(議席数14)、さらに1907年の普通平等直接選挙により社会民主党は議席数87を有する大政党へと発展した。この当時、オーストリア社会民主党が有する際だった特徴は、二重帝国の状況を反映して民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織になっていた点(1897年の「ヴィンベルク党会議」以降)である。この点で社会民主党は、それが加盟する第二インターナショナルの縮図(「小インターナショナル」)としての性格を持っており、また民族を超える労働者の連帯をめざしていたことから特定の民族的基盤をおかない政党であったことも、他の二重帝国の政党と大きく異なっていた。しかし以上のような組織形態を背景に党は民族間の対立、特に労働組合の組織をめぐるドイツ人とチェコ人の対立に悩まされることとなった。このことから社会民主党は1899年、ブリュンでの党大会で民族綱領(ブリュン綱領)を決定し、二重帝国の「民主的な諸民族の連邦国家」への改組を求めた。しかし民族間の対立は解決不能な状態となり、社会民主党が議会の最大政党となった1911年にはチェコ人組織が社会民主党から分離しチェコ社会民主党として独立した。1914年、第一次世界大戦が勃発すると党内ではそれまで力を持っていた反戦論が後退し、「祖国防衛戦争」としてオーストリア=ハンガリーの参戦と戦争遂行政策を支持する、いわゆる城内平和路線をとった。しかし、これに不満を抱くF・アドラーら党内少数派(左派)は反戦活動を展開してV・アドラー、レンナーらの主流派を批判、戦局が不利になるにしたがって次第に支持を拡大した。
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