結党〜第一次大戦期とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 結党〜第一次大戦期の意味・解説 

結党〜第一次大戦期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 15:09 UTC 版)

オーストリア社会民主党」の記事における「結党〜第一次大戦期」の解説

社会民主党源流は、1874年のノイデルフル会議結成された、オーストリア=ハンガリー二重帝国支配下諸民族社会主義政党連合体である。その後1880年代にこの連合体分裂状態陥ったが、1888年、V・アドラー努力により1888年12月30日から翌1889年1月1日にハインフェルト大会開かれ、ここでラッサール派のグループマルクス派のグループ再統合され、「オーストリア社会民主労働党」(以下「社会民主党」)が結党された。この大会で決定されたハインフェルト綱領は、労働者経済的従属政治的権利状態からの解放労働手段社会化労働者保護立法制定8時間労働制実施選挙法改革などを主張していた。1889年には機関紙労働者新聞Arbeiter Zeitung)』(1936年まで発行)、1907年には理論機関誌闘争Der Kampf)』(1938年まで発行)がそれぞれ創刊され、特に後者はレンナー・バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となった結党時の党員数15,000人で、普通選挙一部導入され1897年選挙初め帝国議会でに進出議席14)、さらに1907年の普通平等直接選挙により社会民主党議席87有する大政党へと発展した。この当時オーストリア社会民主党有する際だった特徴は、二重帝国状況反映して民族別ドイツ系チェコ系ポーランド=ウクライナ系・イタリア系南スラヴ系)に組織された党の連合組織になっていた点(1897年の「ヴィンベルク党会議以降)である。この点で社会民主党は、それが加盟する第二インターナショナル縮図(「小インターナショナル」)としての性格持っており、また民族超える労働者連帯めざしていたことから特定の民族的基盤おかない政党であったことも、他の二重帝国政党大きく異なっていた。しかし以上のような組織形態背景に党は民族間の対立、特に労働組合組織をめぐるドイツ人チェコ人対立悩まされることとなった。このことから社会民主党1899年ブリュンでの党大会民族綱領ブリュン綱領)を決定し二重帝国の「民主的な諸民族連邦国家」への改組求めた。しかし民族間の対立解決不能な態となり、社会民主党議会最大政党となった1911年にはチェコ人組織社会民主党から分離しチェコ社会民主党として独立した1914年第一次世界大戦勃発する党内ではそれまで力を持っていた反戦論後退し、「祖国防衛戦争」としてオーストリア=ハンガリー参戦戦争遂行政策支持するいわゆる城内平和路線をとった。しかし、これに不満を抱くF・アドラー党内少数派左派)は反戦活動展開してV・アドラーレンナーらの主流派批判戦局不利になるにしたがって次第支持拡大した

※この「結党〜第一次大戦期」の解説は、「オーストリア社会民主党」の解説の一部です。
「結党〜第一次大戦期」を含む「オーストリア社会民主党」の記事については、「オーストリア社会民主党」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「結党〜第一次大戦期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「結党〜第一次大戦期」の関連用語

結党〜第一次大戦期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



結党〜第一次大戦期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオーストリア社会民主党 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS