経営に乗り出した主な企業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 03:55 UTC 版)
「岩井商店」の記事における「経営に乗り出した主な企業」の解説
白金莫大小・中央毛絲紡績→東亜紡織(現トーア紡コーポレーション)岩井は明治40年(1907年)に白金莫大小(シロガネ メリヤス)工場の経営に参加し、社長として岩井商店の幹部安野譲を送り込んだ。その後同社は大正元年に株式会社白金莫大小製作所となり、同社のKBブランドは高級メリヤスとして名声を博した。 その一方で、大正10年に中央毛絲紡績(株)(本社:大阪・工場:大垣)を設立。同社は昭和16年には綿華毛絲(株)と合併して東亞紡織(株)となり、翌昭和17年には白金莫大小製作所を吸収合併した。東亜紡は、終戦直後まで岩井の中核会社として、三和銀行の主要株主として上位1桁台に名を連ねた。 日本セルロイド人造絹絲・大阪繊維工業→大日本セルロイド(現ダイセル)明治41年に岩井と三菱・鈴木が共同で日本セルロイド人造絹絲(株)(本社:兵庫県揖保郡網干町)を設立、大正5年には岩井単独でセルロイドの製造を目的とした大阪繊維工業(本社:兵庫県尼崎市)を設立した。この2社は大正8年に大日本セルロイドの設立に参加(合併比率は日本セルロイドが21%・大阪繊維が16%)し、同社は鈴木商店解体と台湾銀行(後の第二会社・日貿信)破綻により最終的には旧鈴木系の日本製粉と共に三井グループに帰属している。 大阪鐵板製造・德山鐵板→日本鐵板(現日新製鋼)明治44年、大阪でステンレス鋼製造を行う「亜鉛鍍」が設立されたが、大正2年に岩井が経営に参加し、大正5年に同社は大阪鐵板製造と改称。同年、大阪鐵板徳山分工場が建設され、同工場を母体に昭和3年德山鐵板が設立された。 その一方で大阪鐵板は、大正13年に東京工場(東京)を新設。昭和28年には大阪鐵板・德山鐵板が合併して日本鐵板となり、日本鐵板も昭和34年と日亞製鋼と合併し日新鐵板となった。 日本曹達工業→德山曹達(現トクヤマ)岩井は大正7年に同社の全額出資により「日本曹達工業」(徳山)を設立、昭和11年に德山曹達と改称された。 関西ペイント大正7年、岩井は關西ペイント工業所(西宮)を買収し、關西ペイント(株)(本社:兵庫県西宮市)を設立した。 日本橋梁大正8年、日本橋梁建設合資会社(大阪)の事業を継承し、日本橋梁(株)を設立した。初代社長には岩井勝次郎の長女の婿岩井豊治(東京の大手米問屋「木徳」の木村徳兵衛の二男)が就任した。戦後は旧岩井産業の系譜により日商岩井→双日の関連会社となるが、のちに投資ファンドの傘下となる。 このほか、岩井商店の出資により芝浦スプリング製作所(のちの日本発条)、大日本セルロイド(のちのダイセル化学工業、現ダイセル)から1部門の分離独立により富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス/富士フイルム)がそれぞれ設立された。 このように、岩井商店では明治末年から大正期にかけて見られた重化学工業の流れに対応して工業化路線の道を歩んだ。岩井文助、岩井勝次郎、岩井雄二郎と才能溢れる経営者が輩出した岩井は、後のビッグビジネスになるダイセル、富士フイルム、日新製鋼、トクヤマ、関西ペイントなど、各企業が岩井の全額出資あるいは資本参加により創設され、その発展をみている。また、他の財閥同様に財閥本社を設立(合資會社岩井本店 のち当社に合併)し、これらの関連企業は戦前まで当社で一括した採用活動を行っていた。
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