箱田の獅子舞・概要・分詞の理由
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「木曾三柱神社」の記事における「箱田の獅子舞・概要・分詞の理由」の解説
保存会名 箱田獅子舞保存会祭の行事名称・公開期日・公開場所木曽三柱神社春の祭典4月第2日曜日 木曽三柱神社 木曽三柱神社に付属する一人立ちの獅子である。主として青年団の手によって演じられる。由緒は幕末から明治の頃といわれているが、前橋市川原町から伝えられて始まったという。地元の木曽神社の祭礼に演じられた翌日、神礼などを持参して川原部落を訪れたものともいわれている。 木曽三柱神社が下箱田の旧県社木曽神社より分かれたのは安政年間のこととなっている。なぜ分かれたかについて、神主が父子で内紛をおこしたことによるものと云われている。父は高梨伊賀守正胤といい、前橋市川原町新井家の出であったが、高梨家の養子となりその子もまた養子だったので確執があり、父の正胤が分立を企てた。そのときこの獅子舞も新井氏の手でこの村に移されたらしい(今井善一郎氏説)。 その年ほどあとに下箱田に大火があった際、ちょうど獅子舞の最中だったので、一時獅子舞を避けて中止したことがあった。大正13年、それまで神社の祭典には下南室の神楽を奉納していたのを、獅子舞として復活した。しかし、長い間中断していたので大分舞の型も忘れられたものをなんとか復興した。したがって、もとの型からみるとかなり崩れているといわれている。 獅子舞の目的は、悪魔払いのためと云われている。一人立ちの獅子として特に注目されるものではないが獅子のうち黒ウルシのカシラを端(はな)といい、赤ウルシのカシラを中(なか)、青ウルシを終(しまい)と呼んでいるのはめずらしい。一人立ちの獅子になれるのは、以前は家の長男であったが、のちにその決めはなくなった。 おねりは4月14日の宵祭りのとき神社の前庭で演じられるが、当日15日の順序は、まず神社で一部を舞いそのあと、大石田の松井氏の庭で舞われる。次いで上「かさ」の今井友太郎氏の庭で舞う。この家は獅子舞再興の功労者であり今井兼平の子孫だからということである。次に中央の山口氏方の辻で舞い、前原で演じ神主の家に寄り、井出浦の富岡泰三郎氏の庭、深道辻の藤井氏の下の辻で舞い神社に戻る。以上が以前のおねりの順序である(現存は多少異なっている)。 囃子方は笛と道太鼓である。おねりのほかは、笛と獅子の腰太鼓を囃子として舞われる。なお昔は獅子頭をかぶれる家は相当の家柄でないと許されなかった。また獅子舞実施は村の総意によってきめられ、これを拒否すると「村から出ろ」などといわれた。新しく入ってきたよそ者は獅子頭はかぶらせなかったという。 演目は「トヒヒ」「オカザキ」「トントチャ」「ジャジャジャン」「コロロ」など。昭和45年6月27日、渋川市重要無形民俗文化財指定
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