箱物行政、チャウシェスク歓迎、記念歌も作詞
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「山西敏一」の記事における「箱物行政、チャウシェスク歓迎、記念歌も作詞」の解説
山西は青春を過ごした八尾市と同じ中河内地方で、隣町の柏原で市長32年間の業績にも絶大な自信を持っており、逮捕前の2005年(平成17年)の退任挨拶では「市政が比較的順調に今日まで推移」としたうえで、近鉄大阪線河内国分駅をはじめ駅前再開発に注力した箱物行政について「駅舎改良等々、人口8万人の市で9駅を有する」「駅がよくなれば町がよくなる」「まちづくりにつきましても一定の進化をし得た」と自賛。さらには、「32年間、私はもちろんでありますが、市職員のだれ一人として不祥事がなかった」「当然のことではございますが、大変誇りにも思って、市職員にも感謝を申し上げ」と自身の事件を隠すかのように清廉潔白を強調していた。 なお、挨拶で「大阪教育大学の誘致に伴いまして、文字どおり教育と文化の町のシンボルができ」「文化の向上にも進展をし得た」とも述べているが、教育大学の移転候補地決定は市長就任2年前の1971年で無関係である。 1期目の1975年(昭和50年)4月には、ルーマニアの大統領ニコラエ・チャウシェスクが来日。24年間ルーマニア共産党政権の頂点に立った独裁者として知られたチャウシェスクだが、ベアリングのプラント輸出協定を締結で柏原市にある光洋精工(現・ジェイテクト)工場を視察し、その際、山西が市長として大統領一行を出迎えている。 8期目の2004年4月には、大和川の付替え工事(1704年)から300年を迎え、市として冊子『大和川付替え物語 江戸時代の大治水工事 付替えは柏原から始まった』を発行。冊子には、市長の肩書で監修として登場した上、ペンネーム「大和川清州」で作詞も行い『ソーリャエンヤ大和川』という曲名の「大和川付替え三百周年記念の唄」も作っていた。 そのほか、大阪産業大学校友会の大阪中・南河内支部の顧問なども務めた。
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