第3期 ハーバート家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 07:06 UTC 版)
「カーナーヴォン伯爵」の記事における「第3期 ハーバート家」の解説
第8代ペンブルック伯爵トマス・ハーバートの五男ウィリアム(英語版)の息子で、ウィルトン選挙区(英語版)選出のトーリー党所属の庶民院議員を務めたヘンリー・ハーバート(英語版)(1741年-1811年)は、1780年10月17日にグレートブリテン貴族爵位カウンティ・オヴ・サウサンプトンにおけるハイクレアのポーチェスター男爵(Baron Porchester, of Highclere, in the county of Southampton)に叙位され、これにより貴族院に移った。ついで1793年7月3日にはグレートブリテン貴族爵位カーナーヴォン伯爵に叙位された。この時授けられた称号は正式には「Earl of the Town and County of Carnarvon, in the Principality of Wales」であるが、通常は単にカーナーヴォン伯爵(Earl of Carnarvon)として言及される。以降カーナーヴォン伯爵位は2019年現在までハーバート家(英語版)によって継承され続けている。ポーチェスター男爵位はカーナーヴォン伯爵位の従属称号となり、カーナーヴォン伯爵位の法定推定相続人は「ポーチェスター卿」の儀礼称号を帯びる。初代伯はその後、1806年から1807年にかけて初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィル内閣において主馬頭(Master of the Horse)を務めている。 初代伯の死後に爵位を継承した息子の2代伯ヘンリー(英語版)(1772年-1833年)やその息子で3代伯爵となったヘンリー(英語版)(1800年-1849年)も、襲爵前に庶民院議員を務めた後に襲爵で貴族院へ転じている。3代伯爵の長男であった4代伯爵ヘンリー(1831年-1890年)は保守党の有力政治家であり、1866年には第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの第3次内閣で植民地大臣に就任し、カナダに最初の自治領(ドミニオン)を設立させた。1874年から1878年にかけてはベンジャミン・ディズレーリの第2次内閣で再び植民地大臣を務め、カナダと同じ方式の南アフリカ自治領創設に努めたが、不成功に終わった。第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルの第1次内閣にはアイルランド総督として入閣し、パーネルとの条件付き自治の交渉にあたったが、実らずに終わった。彼は植民地には開明的な思想を持っていたが、内政面では選挙法改正に「階級闘争を激化させる」として断固反対し続けた。 4代伯爵が没すると、息子のジョージ(1866年-1923年)が5代伯爵となった。5代伯爵はアマチュア考古学者であり、ハワード・カーターのスポンサーとなりツタンカーメン王の墓の発見を支援したことで知られている。続いて5代伯爵の一人息子ヘンリー(英語版)(1898年-1987年)が6代伯爵、6代伯爵の一人息子ヘンリー(英語版)(1924年-2001年)が7代伯爵となった。2019年現在のカーナーヴォン伯爵は8代伯爵となるジョージ(英語版)(1956年-)で、2001年に襲爵した。現当主は、2012年に第18代ペンブルック伯爵ウィリアム・ハーバート(英語版)に息子が生まれるまでペンブルック伯爵位の推定相続人でもあった。 カーナーヴォン伯爵家の邸宅はハンプシャー州のハイクレア城である。この城は司法長官ロバート・ソーヤー(英語版)からその娘マーガレット(第8代ペンブルック伯の妻)、その次男ロバート・ソーヤー・ハーバート(英語版)、その甥にあたる初代カーナーヴォン伯へと相続された城である。ここはテレビドラマ『ダウントン・アビー』の撮影に用いられた。
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