第四回使節
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1269年(文永6年・至元6年)9月、捕えた対馬島人の塔二郎と弥二郎らを首都・燕京(後の大都)から護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来。今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した。 モンゴル帝国による中書省牒 2度目の国書がモンゴル帝国の中央機関・中書省からの中書省牒だったことについて、クビライが「皇帝」の国書では日本側からの返書は得にくいと判断し、皇帝本人からの国書よりも下部機関である「中書省」からの国書にすれば日本側が返書し易いと考えたのではないかとされる。この中書省牒は日本に明確に服属を要求する内容だった。 朝廷による返書『太政官牒案』草案 この中書省牒に対して、朝廷の評定では、モンゴル帝国の服属の要求を拒否することに決し、さらに拒否の返書を出すこととした。早速、文書博士・菅原長成が返書文を起草し、中書省牒に対して返書「太政官牒案」草案を作成した。 草案の内容は以下のように、モンゴル帝国に対して日本の独立性を主張した内容だった。「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。 本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。 (中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。 およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに皇帝の国土を昔から神国と号すのである。 知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ぬ唯一無二の存在である。よく考えよ」 また、高麗国王・元宗にも返書案を作成しており、捕えられていた塔二郎と弥二郎の送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった。 しかし、幕府は評定により「返牒遣わさるべからずの旨」を決し、朝廷に返書しないことを上奏した。朝廷が幕府の提案を受け入れたため、モンゴル帝国からの使節は返書を得ることに失敗し帰還した。
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