第二次大戦後から多文化主義政策まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 23:27 UTC 版)
「白豪主義」の記事における「第二次大戦後から多文化主義政策まで」の解説
第二次大戦後、労働党が人口2500万人を目標にした大量移民計画を発表した。これにより広大な面積を持つオーストラリア大陸の労働力や市場を彼らが支えるようになると、従来の人種差別政策は撤回していかざるを得なくなっていった。 特に、1973年にイギリスがECに加盟したことで、ヨーロッパ諸国との繋がりを重視し始めたことに伴い、それまで圧倒的に密であったイギリス本国とイギリス連邦加盟諸国の繋がりが薄れ、連邦が実質的意味を失いつつあったことが、この事態に拍車をかけることになった。それまで旧宗主国イギリス一辺倒であったオーストラリアの外交政策は転換を余儀なくされ、経済的にも政治的にもアジアの一員となっていく(アジア化)。すでにベトナム戦争以降、経済的な連携関係が構築されていた日本、次いでNIESと呼ばれた台湾や、同じ旧イギリス帝国の一員でもあった香港やシンガポール、さらに近年は中国を向き始め、アジアの仲間としての道を模索していくことになる。 1972年に誕生したゴフ・ホイットラム労働党政権は、急速な政治改革を実践したが、その一環として移民政策も大きく転換した。1973年の「移民法」「オーストラリア市民憲法」の改正、1975年の「人種差別禁止法」制定によって、原則的に移住手続きや、移民の国内での生活・教育・雇用に関する一切の人種差別を禁止した。オーストラリアも軍を派遣したベトナム戦争後、やましさと人道的観点からベトナム難民を数多く受け入れるなど、積極的にアジアからの移民を受け入れるようになり、マルチ・カルチュラリズム(多文化主義)を国策として掲げるようになった。 しかしながら、1968年のメキシコオリンピックにて、所謂『ブラックパワー・サリュート』を支持したピーター・ノーマンがオーストラリアメディアに公然と非難を浴びたり、以降のオリンピック代表選考にてオーストラリアオリンピック委員会(AOC)から不当な扱いを受ける(AOCは好成績を残したノーマンを代表には選ばなかった)など、潜在的な差別意識の撤廃には更なる時間を要することとなった。
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