第二次世界大戦開戦と海相就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「第二次世界大戦開戦と海相就任」の解説
英仏とソ連の挟撃の危機を回避したドイツ軍は1939年9月1日にポーランドへ侵攻を開始した。閣僚からも対独開戦を要求されたチェンバレンは、9月2日にドイツに宣戦布告した。イギリスに引きずられてフランスも対独参戦し、第二次世界大戦が開戦した。 開戦した以上、チェンバレンとしても対独強硬派の代表格チャーチルを登用しないわけにはいかず、チャーチルを海軍大臣に任じた。チャーチルは24年ぶりに海軍省大臣執務室に復帰した。全艦隊に「ウィンストン帰る」と書いた電報を送っている。チャーチルは長らく政権から離れていたとはいえ、コネを使って政府の軍事情報を収集するのを怠らなかったし、1935年からは帝国防衛委員会付属の防空研究委員会に所属していたので航空機の最新知識もそれなりに持っており、役職をこなすうえで難はなかった。 チェンバレン首相は開戦後も早期の平和実現を願っており、今度の戦争は第一次世界大戦のような徹底抗戦ではなく、経済圧力を主眼にしようと考えていた。ドイツをやせ細らせて、領土拡大が「割に合わない」ことをヒトラーに思い知らせ次第、早期講和に持ち込む考えである。だがチャーチルは第一次世界大戦の時と同様イギリスかドイツ、どちらかが倒れるまで徹底的に戦うつもりだった。これについて閣僚の一人サミュエル・ホア (初代テンプルウッド子爵)卿は「奴は100年でも戦うつもりでいる」とチャーチルを批判している。 海戦の状況は一進一退だった。開戦間もない1939年10月13日から14日にかけてドイツ海軍の潜水艦Uボートによって戦艦ロイヤル・オークが沈められた。しかし12月には逆にイギリス戦艦がドイツ海軍の装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーを自沈に追い込んだ。
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