空軍参謀クレア・L・シェンノートの登場
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「フライング・タイガース」の記事における「空軍参謀クレア・L・シェンノートの登場」の解説
1930年代後半、蔣介石は自国の軍備が他国に比べて遅れたため、外国の新型兵器を購入、アメリカやドイツから外国人軍事顧問を雇い入れ軍備の近代化を図った。 盧溝橋事件の2ヶ月前に当たる1937年5月1日、アメリカのルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートは、国民党航空委員会秘書長で蔣介石夫人の宋美齢による呼びかけにより、中華民国空軍の訓練教官・顧問として雇い入れられた。当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが、蔣介石は空戦経験の豊富な彼を航空参謀長の大佐として遇した。月給1000ドル、現代日本価格1200万円であった。 着任したシェンノートは中華民国内を視察、日本軍航空隊への対策を思案した。1937年、それまで爆撃機を主軸にしていた空軍に対し、「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中華民国空軍はこの脅威を退けることが出来る」と蔣介石に具申した。この計画は、米国と協議の結果、承認された。 派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コーコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由する形をとった。中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、国民党軍が資金を使い部隊を編成した。1940年の夏にシェンノートは優れたパイロットを集めるために米国に一時帰国した。
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