移動体育館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:40 UTC 版)
プロレスの野外興行は雨が降ると、プロモーターが雨天決行もしくは雨天中止を選択しざるを得ない。当時は交通費節約のため前者を選択するのが大半で、後者の場合は順延日がサーキットの日程にマッチングしないことも少なくなかった。 国際プロレスは、交通費などの経費節約のため、移動体育館の導入を決定した。考案者は北海道出身の名物レフェリーであった阿部脩で、本体はサーカスのテントを模したもので、4時間で設営完了するというものであったが、実際はレッカー車を使用して2時間で設営できた。当時野外会場で問題となっていた入場券を持たない観客が観戦することを防止することにも役立った。移動体育館導入に伴い、国際プロレスは設営のためのレッカー車を導入した。観客席は当時の屋外会場の主流であったゴザ敷ではなく、長椅子を用意し、野外会場における観戦環境の改善にも役立った。移動体育館が行われる大会は、当時は3時間稼働可能な発電機や蓄電池の価格が高額で、電気代を節約するため14時から16時試合開始で行われることが多かった。日本プロレスも移動体育館の導入を検討していたが、日本テレビにより却下されている。 移動体育館の初使用は1970年8月6日に開催された「'70ビッグ・サマー・シリーズ」小樽大会であった。このシリーズの北海道サーキットでも多く使用され、同時に、「'70ビッグ・サマー・シリーズ」は、日本人選手用の専用バス、外国人選手用のマイクロバス、リング輸送用トラック、移動体育館設営用のレッカー車、サンダー杉山とグレート草津の自家用車の6台を連ねての巡業だった。「第3回IWAワールド・シリーズ」と「第4回IWAワールド・シリーズ」では使用頻度が多かった。一方で、通気性がなく、テント内が高温多湿であったことが災いし、マイティ井上は「農家のビニールハウスの中で試合をやるようなものだった」と語っている他、門馬忠雄は「眼鏡が曇って試合が見れなかった」と語っている。 「'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ」の頃になると、移動体育館の使用は北海道限定となり、移動体育館自体も札幌郊外の倉庫に保管されるようになり、その後保管場所を道場にほど近い埼玉県与野市(現:さいたま市中央区)に保管場所を移し、最末期は関東地方限定で使用していた。 雨天時に威力を発揮した移動体育館であったが、長年の使用による悪臭による選手からのクレームや、気象予報の正確性の向上、「'78ビッグ・サマー・シリーズ」では雨天中止の際の予備日が翌日であったことなどから、1978年に移動体育館は廃棄され、その役目を終えた。
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