移住条約と抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 03:59 UTC 版)
ジャクソンが1832年の大統領選挙で地滑り的勝利で再選されたことにより、チェロキー族の中でも最も執拗に移住反対を唱えていた者もその立場について再考し始めた。チェロキー族のメイジャー・リッジに率いられ、その息子ジョン・リッジと甥のエリアス・ブーディノットとスタンド・ワティーは「リッジ党」あるいは「条約党」と呼ばれる党派を創った。リッジ党は白人の無断居住者や州政府および暴力沙汰が事態を悪くする前に、合衆国から有利な条件を引き出した方がチェロキー族の利益に繋がると信じた。ジョン・リッジは1820年代後半にジャクソンの官僚達と非公式の話を始めた。一方で、チェロキー族の移住を予測し、ジョージア州はチェロキー族の土地を市民に分け与えるために催す抽選の準備を始めた。 しかし、チェロキー族の選ばれた首長ジョン・ロスとその他大多数のインディアンは断固移住反対の姿勢を崩さなかった。政治的な操作が始まった。ロス首長は1832年の種族の選挙を取りやめ、委員会がリッジ党を弾劾し、そのメンバーの一人は殺された。リッジ党はこれに対抗するためにチェロキー族の一部のみを代表する委員会を構成した。これがチェロキー族を2つに割ることになり、西部のチェロキー族はメイジャー・リッジに率いられ、東部のチェロキー族はジョン・ロス首長をチェロキー族の首長と認め続けた。 1835年、ジャクソンはジョン・F・シャーマーホーン牧師を条約交渉の使者に指名した。合衆国政府はインディアン移住の見返りに450万ドルを支払う提案をした。この条件は1835年の10月にチェロキー族の委員会により拒絶された。ロス首長は自分の管理する種族とリッジ党との間の隙間を埋めることを目指し、ジョン・リッジとともに新しい交渉のためにワシントンD.C.に行ったが、そっぽを向かれシャーマーホーンと交渉するように言われた。 この間に、シャーマーホーンはジョージア州ニュー・エコタで移住賛成派の委員会との集会を開いた。数千もいたチェロキー族のうち、ほんの500名が招集に応じて出席し、1835年12月30日、チェロキー族移住に賛成する21名が(これにはメイジャー・リッジとエリアス・ブーディノットが含まれていた)、ニュー・エコタ条約に署名するか、(署名の代用を意味する)「X」記号を残した。ジョン・リッジとスタンド・ワティーは条約文がワシントンに戻って来たときに署名した。ロス首長は予想通り署名を拒んだ。署名した者は、ジョン・リッジが起草し1829年に制定されたチェロキー族の掟を侵害していた。その掟を破りチェロキー族の土地を売り渡すことに同意した者は罪とされ、刑は死であった。 チェロキー族委員会の誰もその書面に署名しなかった。この条約ではミシシッピ川以東のチェロキー族の土地を売り渡すことに同意していた。この文書は詐欺だというチェロキー族委員会やロス首長の抗議にもかかわらず、アメリカ合衆国議会は1836年5月23日に、1回の投票で条約を批准した。この時にリッジ党を含み多くのチェロキー族が西部に移動し、既に移住していた者に合流した。1836年の終わりまでに6,000名以上のチェロキー族インディアンが西部に移動した。しかし、16,000名以上の者が南部に残り、条約の執行期限は2年間しか残されていなかった。
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