神龍図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 05:41 UTC 版)
京都・方広寺 蔵、紙本墨画金彩、明治44年(1911年)。縦455cm横425cmにも及ぶ、霊華が描いた初の大作。霊華は当時まだ無名だったが、門人の塚本霊山の紹介で揮毫を依頼されたと伝えられる。本来は方広寺大黒天内陣の天井画として描かれたが、鼠害などによって絵が失われるのを惜しんだ住職によって、現在のように軸装された。方広寺は昭和48年(1973年)に落雷による火災に見舞われているが、その際「神龍図」も被害を受け、修復されてはいるものの、絵の外周部には焼け跡や消火水を被った跡が見られる。 霊華は方広寺が豊臣秀吉所縁の寺で、伝統ある京都に自分の作品が残ることを喜び、足掛け三年にもわたる準備期間を経て制作に臨んだ。霊華によると、龍の書き方には時代によって大きく異なっているという。特に中国・唐以前と、宋元以後では差が大きく、日本の龍もこれに従って2系統あると語る。室町時代以降は後者に倣い、江戸時代にはそれが非常に俗化し、龍本来の「荘厳神秘の趣」が堕落してしまった。一方前者の系統を調べると、鎌倉時代には絶えている。例えば、正倉院の唐櫃や鏡の模様、興福寺の『華原磬』、『平家納経』筥の文、『華厳宗祖師絵伝』、『鳥獣戯画』などで、これらの龍は、龍の本来の「幽玄神逸」「護法の精神」をよく表している、として霊華は高く評価した。実際、神竜図における龍の口上部が平たく伸びた表現は、これらを典拠にしていると考えられる。霊華は神竜図完成間際に、新聞記者で美術評論家でもあった関如来宛の手紙で以上のようなことを述べた上で、「龍という神秘荘厳の観念が、人間の頭脳に初めて閃いた原始の時代に、少しでも近づけたつもりである」と語っている。
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