神戸、ドヤ街、アイルランド(1995〜)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:10 UTC 版)
「ソウル・フラワー・ユニオン」の記事における「神戸、ドヤ街、アイルランド(1995〜)」の解説
1995年2月、阪神・淡路大震災の直後に伊丹英子の発案で、震災被災者を励ますため、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット名義による「出前慰問ライヴ」を開始。被災地特有の諸般の理由からアコースティックな楽器を用いることにし、エレキ・ギターを沖縄の三線に、ドラムをチンドン太鼓やチャンゴ(朝鮮太鼓)に持ち替え、他のメンバーはそれぞれアコーディオンやクラリネットなどを持ち、震災初期はマイクの替わりにメガホンや拡声器を使い、避難所や仮設住宅などで演奏活動を行った(震災当初、如何なる場所でも演奏出来る、ということが主眼に置かれた故の「非電化」であった)。震災被災者の中でも、特に年配のために、戦前戦後の流行り唄や壮士演歌、ヤマト民謡・沖縄民謡・朝鮮民謡・アイヌ民謡などをレパートリーにし、チンドン・アレンジで演奏し、彼らを力付けた。また、同時期に伊丹英子が『ソウル・フラワー震災基金』を立ち上げ、長期にわたり震災被災者の支援を積極的に行っている。 中川敬が震災の一ヶ月後に書き下ろした「満月の夕」では、被災地の惨状や、復興への厳しい現実、そして、それらに向き合う人々のひたむきな姿が歌い込まれ、大きな反響を得た(主旋律の一部は山口洋との共作)。それを受け、この曲は後年においてもガガガSPや沢知恵、平安隆、酒井俊、BRAHMAN、J-Min、大竹しのぶ、アン・サリーなど、多くのアーティストによりカバーされている。 そうした多くの出逢いを生んだ被災地での活動は、ソウル・フラワー・ユニオンの3rdアルバム『エレクトロ・アジール・バップ』、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』など、初期のピークを指し示している作品群の隅々に反映している。 1997年、伊丹英子の耳の持病(音響性外傷)が悪化し、ソウル・フラワー・ユニオンとしての活動を一時停止するが、同年年末に活動再開。活動停止期間中は、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットとしての活動(ドヤ街、障害者イベント、ベトナム、フィリピン、香港など)と、中川敬のソロ・プロジェクトであるソウルシャリスト・エスケイプの活動を行っていた。この中川のソロ活動により、ドーナル・ラニー、シャロン・シャノン、アルタン、キーラらアイリッシュ・トラッド界の歴々たるアーティストとの交流、レコーディング・セッションが始まり(『ロスト・ホームランド』『マージナル・ムーン』『ウィンズ・フェアグラウンド』『スクリューボール・コメディ 』など)、大衆歌謡とトラッド、ロックをミクスチャーした独自の音楽世界を確立してゆく。
※この「神戸、ドヤ街、アイルランド(1995〜)」の解説は、「ソウル・フラワー・ユニオン」の解説の一部です。
「神戸、ドヤ街、アイルランド(1995〜)」を含む「ソウル・フラワー・ユニオン」の記事については、「ソウル・フラワー・ユニオン」の概要を参照ください。
- 神戸、ドヤ街、アイルランドのページへのリンク