神代と天皇の発祥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:28 UTC 版)
皇室の系図は『古事記』『日本書紀』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。最初に葦原中国(日本)に降臨したのは高皇産霊尊と天照大御神の孫である瓊瓊杵尊である。紀元前663年、長髄彦を神武天皇が打ち破り(神武東征)、神武天皇が統治することになったとされる。明治政府から戦時中までの日本では、神武天皇以降の史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする神武天皇紀元(皇紀)が採られていた。しかし、津田左右吉の学説が広まった戦後は、『日本書紀』は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在についての実証性に欠けるものと見る説が主流となった。特に欠史八代の天皇について、古代中国の革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を付け加えたのではないかと指摘する学説が主流となっている。一方、讖緯説は時代錯誤であるとの批判もあり、宮都・天皇陵の記述や婚姻氏族の存在などを根拠とした欠史八代実在説もあって、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた古墳時代辺り迄ともされるが、記紀から推定される河内湖の存在などから、神武天皇の実在を主張する説もある。 3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、神話に描かれる素戔鳴尊が弥生時代に朝鮮半島から北九州に渡来した皇室の始祖で、この6世孫の神武天皇が東征して大和を開いたとする説、弥生時代の北九州または近畿地方にあった邪馬台国の卑弥呼を天照大御神と見て、その系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。[要出典]
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