神代から中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:00 UTC 版)
吉田神社の社伝では、「天照大神が岩戸にお隠れになり、諸神が神楽を奏した場所が如意ヶ嶽となった。その後、事勝神と賀茂御祖神が神代の楽を奏した場所が神楽岡となった」と言い伝えられている。『類聚国史』には、延暦13年(794年)に桓武天皇が康楽岡(かぐらおか)で猟をしたことが記されており、これが文献における神楽岡の初出である。平安前期の『延喜式』には「山城国愛宕郡神楽岡西北に霹靂神を祀り、毎年4月に幣帛が届けられた」事が記されており、現在は吉田神社の摂社である神楽岡社のことである。清和天皇の代の貞観元年(859年)には、藤原山陰によって吉田神社が創建されたが、『延喜式神名帳』の式内社には吉田神社は含まれず、朝廷の幣も存在しなかった。後白河法皇の編による『梁塵秘抄』には「吉田野の きのねをわれか やまはやす とて舞ふ見つる 神楽岡かな」「振りたてて 鳴らし顔にぞ 聞こゆなる 神楽の岡の 鈴虫の声」の2首がある。鎌倉期頃には公家の山荘地となり、西園寺公経の吉田泉殿などが知られている。中世には付近一帯が遊猟地となり、天皇家の陵墓(陽成天皇陵、後一条天皇菩提樹院陵、後二条天皇北白川陵など)も設けられた。 『太平記』には、延元元年(1336年)に足利尊氏の軍勢が神楽岡に布陣して南朝方と戦ったことが記されている。室町時代の神楽岡は斎場所でもあった。吉田兼倶が吉田神道を大成し、その拠点となった吉田神社は明治時代まで神道界で大きな権威を振るった。この時期には山地の大半が吉田神社の神苑だった。
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