社会的正義の作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 14:37 UTC 版)
ブルジョワ社会の最も度し難い卑劣さのひとつは奴隷制度の現代的な形態である召使制度である。「奴隷制度はもう存在しないといわれる。ああ、それは真っ赤な嘘だ! それに召使いが、奴隷でないなら、いったい何だろう?...道義的卑劣、余儀なき腐敗、憎悪を生む反抗について、奴隷制度のともなう一切を有するのだから、事実上の奴隷だ」。そして現代の奴隷の密売人は、破廉恥ながら合法的な、口利き屋というあっせん所であり、それらはいわゆる「慈善的」、あるいは「博愛的」団体に引き継がれ、神の名で、あるいは近しい者への愛を盾に、新たな奴隷の汗と血によって咎めも受けずに肥え太る。 召使は階級から脱落した「はぐれ」者、「化け物じみた、人間の雑種」であり、もはや「自らが属していた民衆」ではなく、まただからといって「自らが暮らしまた目指すブルジョワジー」にも属さない。 不安定さが彼女の運命である。小間使いは主人の気まぐれによって、たらいまわしにされる。 彼女たちはそろばん片手にこき使われる。 彼女たちは在宅のセックス・ワーカーとして―欲求不満の亭主たちのはけ口、筆おろしの世話をし、家に引き留めなければならない息子らの、道案内として扱われる。 彼女たちは、ゆるぎなき良心の持ち主である主人らによって、何かにつけ侮辱される。彼らは奉公人を畜生あつかいするのだ。 彼女たちは雇い主によりイデオロギー的に疎外されている。したがって同じ武器では戦えない。というのは反抗と解放の希望をあたえる知的な糧が見出せないから。 したがって、ミルボーは虐げられた者たちが、悲惨な状況を自覚する手助けをすると同時に、恒常的なこの恥辱を終わらせるために、為政者が介入せざるをえなくなるような騒ぎを、世論に惹起しようとする。規則のもとでの濫用を、そして美しい見場の下に意外な社会的悲惨を、我々が発見せざるをえないようにしながら、「この世の貧しき者と苦しめる者たち」に深い憐れみを表明する。ゾラが彼にしたためているように、彼はそれらの人々に、「自らの心」を与えた。 非人間的な社会秩序にたいするこの嫌悪と反抗は、永続する実存的嘔吐感に根づいている。そして支配層の道徳的腐敗は世界的な腐敗を反映し、そこからあらゆる生命が芽ばえる。「『小間使の日記』からは肉の腐敗と魂の退廃のたまらぬ匂いが発散し、それがこの作品を死の雰囲気の下においている」とセルジュ・デュレは書いている。「エントロピーの法則が肉体を支配している」-そして魂も。ここでは人間の服する条件のもたらす悲劇は、日常性の言及されるあらゆるせつなに、その日常性が有する空虚で、卑俗でしかも下劣な一切のうちに湧き出る。セレスチーヌが苦しむ「倦怠(アンニュイ)」はアンドレ・コント-スポンヴィルが指摘するように「虚無の体験」である。サルトルよりもはるか前、ミルボーはわたしたちに真の実存的「嘔吐(ノゼ)」を引き起こそうとつとめたのだ。
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