社会体制の批判
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社会体制の批判をした論文には次がある。 長谷川如是閑「冷静に而してファシズムを警戒せよ」(『改造』1928年) 長谷川如是閑「ファシズムの社会的条件と日本の特殊事情」(『批判』1931年3月1日) 長谷川如是閑「我が国に於けるファシズムの可能と不可能」(『批判』1931年4月1日) 長谷川如是閑「ブルジョア国家に於ける「議会主義」及び「独裁主義」」(『改造』1932年3月1日)A. 最高資本主義国では、独裁主義はブルジョアジーの階級的支配として行われ、ブルジョアジーは独裁主義の否定者として現れる。 B. 後進資本主義国では、独裁主義は封建的支配の門的残存または復活として行われ、ブルジョアジーは独裁主義者として現れる。 石橋湛山「国難打開の三項目」(『東洋経済新報』1932年5月21日)ファシズム運動の社会的原因としては、i) 言論自由の欠如、ii) 指導者の無能、iii) 経済界の不景気がある。 長谷川如是閑「資本主義・帝国主義・日本主義」(『経済往来』1932年7月1日)「資本主義的領域の拡大が困難になったときには、戦争の結果は膨大なる生産組織の休止状態を生じて、今日のような世界的恐慌となることは十分予想されたことである」。戦争は矛盾を克服し得ない。 石橋湛山「言論を絶対自由ならしむる外思想を善導する方法はない」(『東洋経済新報』1933年1月28日)「共産主義にも、ファッショにも、軍国主義にも、その他あらゆる思想に、思いのままの勝手の議論をさせるがよい。しかしてその自然淘汰によって、正しきは社会に採り入れられ、誤れるは捨てられる」。 河合栄治郎「議会主義と独裁主義との対立」(『経済往来』1934年2月)マルクス主義とファシズムには「共通項がある。それは自己の目的を達する能率の上において、議会主義は適当の手段ではない、ということである」。両者はともに議会には多数を占めえないと思っている。「自己が多数を占めうるという確信があるならば、議会主義を排撃する必要はない」。 桐生悠々「強権主義、国家主義と間違えられた全体主義」(『他山の石』1938年12月20日) 桐生悠々「独裁主義と議会主義との対立」(『他山の石』1940年3月20日)
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