研究と最初の就職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 04:19 UTC 版)
「ハインリヒ・フォン・クライスト」の記事における「研究と最初の就職」の解説
軍隊を去ったクライストは1799年4月から生地フランクフルト・アン・デア・オーダーのヴィアドリーナ大学で数学と物理学、文化史学、ラテン語、そして家族を安心させるために官房学(官吏として働くために必要な知識をまとめた学問)を学んだ。クライストが特に興味を持ったのはクリスティアン・エルンスト・ヴュンシュ教授による物理学の講義で、クライストは彼による実験物理学の個人授業も受けている。この時代の多くの作家にとってそうであったのと同じように、自然科学は彼にとって啓蒙主義的に自己と社会・世界を知る客観的な手段であった。しかし希望を持って学び始めたクライストはすぐに書物によって得る知識に満足できなくなった。このため彼は飽き足りない思いにみまわれていたものの、このような態度は彼のいた環境では多くの理解を得ることはなかった。同じ1799年クライストはヴィルヘルミーネ・フォン・ツェンゲと知り合い、翌1800年始めには彼女と婚約している。 1800年クライストはわずか3学期学んだだけで大学を離れ、ベルリンのプロイセン財務省で実習生として働き始めた。これは彼の「精神修養を積む」という人生計画には反しているが、この背景には婚約したヴィルヘルミーネの家族からの官僚になってほしいという期待があった。1800年夏には財務省のために、おそらくは産業スパイのようなものだと思われるが、秘密任務を引き受けている。 この職業的、社会的、個人的な悩みを彼は次のように書いている。 「人生は難しいゲームです。…なぜなら人は絶え間なく常に新しいカードを引かねばならず、しかもどのカードが切り札なのかは分からないからです。」(1801年2月5日姉ウルリケ宛) この悩みは、おそらくカントの『判断力批判』を読んだこと、いわゆる「カント危機」を背景に深まった。カントの啓蒙主義の楽天的見解に対する批判はクライストの単純明快な理性への信頼に基く人生計画を一夜にして打ち砕いた。 「我々には真理と呼ばれているものが本当に真理であるのかそれとも我々にそう思われるだけなのかを区別することはできません。…僕の唯一最高の目的は沈んでしまい、僕には最早なにもありません-」(1801年3月22日姉ヴィルヘルミーネ宛) この危機から逃れるためにクライストは旅行を思い立った。
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