研成義塾の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:50 UTC 版)
詳細は「研成義塾」を参照 事態を憂慮した愛蔵ら禁酒会の会員らが、村の旧家で有力者の臼井喜代、愛蔵の父・相馬安兵衛の援助を得て、私学校「研成義塾」を村に設立することとなった。井口も、かねてから日記に「郷党の少年を教えて一代の思想を開拓す。また人生の快事ならずや。」と記しており、改めて理想の教育に取り組むことを決意した。 研成義塾は、初めは集会所を借りた小規模なものだったが、2年後、愛蔵らの支援により本科教室と裁縫室、応接室のある新校舎が建てられた。建物は小さくても、そこには、「学生の多数を望まず、校舎の壮大なるを望まず」、「一人の教師が一人の生徒と信頼をもって相対」するという確固たる教育精神があり、キリスト教に基づいた人格主義教育をめざし、「偉い人」でなく「善い人」になることが説かれた。 この研成義塾からは、多くの逸材が育ち、1931年(昭和7年) 井口が病に臥すまで続いた。義塾の卒業生は800名近くにのぼり、朝日新聞の自由主義評論家清沢冽や銀座ワシントン靴店店主東條たかし、日系人の強制収容に抵抗したゴードン・ヒラバヤシの父平林俊吾、百姓をしながら評論家であった斉藤茂、早逝の作家太田喜代松など、評論家、実業家、芸術家、学者として名の知られた人も輩出したが、多くは地域にとどまり、誠実な一生を送っている。
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