白ロシア共和国指導者として
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「アレクサンドル・チェルヴャコフ」の記事における「白ロシア共和国指導者として」の解説
11月25日から1924年2月10日までは白ロシア共産党(ロシア語版)中央委 (be) 中央局員、1920年12月18日から1924年3月17日までは白ロシア共和国人民委員会議議長(英語版)、1920年8月1日からは中央執行委 (ru) 議長を務めた(12月18日までは代行)。1921年から1923年7月までは外務人民委員 (be)、1922年3月20日から1924年2月10日までは白ロシア共産党中央委幹部会員、同月9日から5月14日まではロシア共産党中央委臨時白ロシア局幹部会員、翌15日からは白ロシア共産党中央委局員 (be) に就いた。 1922年12月30日には第1期ソビエト連邦中央執行委第1回会議においてミハイル・カリーニン、グリゴリー・ペトロフスキー、ナリマン・ナリマノフとともに中央執行委議長に選出されている。また、第11回(ロシア語版)から第17回(ロシア語版)までの連邦党大会にも出席した。 白ロシア共和国指導者として、チェルヴャコフは白ロシア化(ロシア語版)を推進した。その治世においては、1921年末までに300人を超す知識人が白ロシアに帰国し、白ロシア国立大学(ロシア語版)や白ロシア文化研究所(ベラルーシ語版)が開設され、1928年初頭までには一般教育機関と中央省庁の80パーセントで白ロシア語が使用されるようになった。ポーランド・ソビエト戦争後に白ロシアを見舞った飢饉はネップと農業自由化で食い止められ、帰還兵の住宅問題解決にも役割を果たした。1924年にはヴィテプスク県、ゴメリ県、スモレンスク県の郡が白ロシア共和国に移管され、領土と人口の拡大も成し遂げられた。1924年の連邦憲法の制定委員や1927年の白ロシア共和国憲法 (be) 採択者の一人ともなり、白ロシア共和国国旗・国章制定にも関わっている。 しかし、1927年末には既に、白ロシア共産党は白ロシア化とネップを反革命的であるとして抑制する方針に転換していた。1929年4月、党はチェルヴャコフに「自身の右翼日和見主義に断固としたボリシェヴィキ的自己批判を加える」ことを命じ、12月にチェルヴャコフは『ズヴャズダ』紙に謝罪記事を発表した。数日後にチェルヴャコフはモスクワに宛てて白ロシアからの転出願いを書いたが、この要請は退けられた。翌1930年の第13回党大会 (be) においても、チェルヴャコフはミンスク管区 (ru) 委責任書記アダム・スラビンスキー (be) から「レーニン主義よりも白ロシア社会主義会議(ロシア語版)や『ナーシャ・ニーヴァ(英語版)』の問題に通じている」との批判を受けている。
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